60年愛される喫茶店「それいゆ」: 2代目への継承
- James Farrer
- 21 時間前
- 読了時間: 25分
西荻窪駅の北口を出て、平和通りを歩いてすぐ。うさぎのマークのスタンドと、温かな光が漏れる窓が目印の喫茶店がある。店内には、昔からの常連客から若い世代までさまざまな人が集い、それぞれの時間を過ごしている。
西荻窪は古い個人経営の喫茶店が多く残る街として知られている。そのなかでも、店主の世代交代が成功した例は決して多くない。長く愛された喫茶店が後継者の不在によって閉店してしまうという話は、西荻に限らずどこの街にもある。私たちはこれまで、こけし屋、喫茶店ダンテやどんぐり舎といった、長い歴史をもつ西荻の喫茶店を取材してきたが、多くの場合(例えばダンテさん)、創業者が引退する時点で店も終わってしまう。今回はそうした老舗のなかでも、創業から60年を迎え、2代目へとうまく引き継がれた1軒を訪ねた。平和通りの裏手にある喫茶店「それいゆ」である。
この店を切り盛りするのが、2代目店主の廣田桃江さんだ。アニメCG制作の仕事から転身し、母と叔母から受け継いだ場所を大切に守ってきた。「接客は緊張するんです。」と自認しながらも、店に流れる空気には桃江さんの誠実で温かな人柄がどこか表れているように感じられる。今回は、桃江さんに「それいゆ」のこれまでと今、そして西荻窪という街への思いについて、店のホールスタッフでもある共著者・荒井香穂とともに話を聞いた。
「それいゆ」誕生秘話 ── パワフルな姉妹と芸術家の父
「それいゆ」のルーツは、戦前にまで遡る。桃江さんの祖父母は五反田に住み、居酒屋を営んでいた。なぜその後、西荻窪で店を始めることになったのか、改めてそのきっかけを伺った。
「一番最初が五反田で、自分の祖母が商売をしてたので、商売をしたい気持ちは本人たちはあったと。娘2人(桃江さんの母親と叔母)としては商売をやりたいっていうのはあったんですけど。」
戦前、桃江さんの祖父母は五反田で居酒屋を営んでいた。しかし、空襲で店は全焼し、祖父母は娘たち、つまり桃江さんの母と叔母たちを連れて山形へ帰郷することになる。店は失われたものの、商売の記憶は家族のなかに残り続けた。母と叔母は、祖父母から商売がいかに楽しかったかを何度も聞かされながら育ち、いつか自分たちも商売をするのかもしれないと、自然に考えるようになっていったという。
その思いが、のちに西荻窪で店を開くことへとつながっていく。西荻窪は、結婚したばかりの桃江さんの両親が最初に2人で暮らした街であり、楽しい新婚時代の記憶が残る場所でもあった。その後、両親は渋谷へ引っ越したものの、商売をするなら楽しい時間を過ごした街で、という思いから西荻窪が選ばれた。そこへ叔母も後を追うように上京し、3人で当時流行していた喫茶店を始めることになった。
「2人(桃江さんのご両親)が一番最初に新婚で住んでいた街が西荻窪の北口の方でした。近場でお店やりたいっていうことで、じゃあ西荻窪にしようかって。その後、本人たちは次に渋谷の方に引っ越しちゃうんですけど……それで結局渋谷に引っ越しちゃったけど、お店はその馴染みのある西荻窪でっていうので。」
五反田で祖父母が商売をしていた記憶と、商売の楽しさを聞かされながら育った経験は、桃江さんの母と叔母にとって、店を開くことへの自然な憧れにつながっていった。そして西荻窪は、桃江さんの両親が新婚時代を過ごした「馴染みのある」場所として、店を始めるための大切な場所となった。

お店を立ち上げた姉妹は、行動力に富んだ女性たちだった。
「あの二人は暇さえあればすぐ旅行。何百万もそれのために借金して、あとはなんとかなるだろうみたいな感じで、手元にお金さえあればなんとかなるだろうみたいな感じで。もうぶっつけ本番で海外行ってツアーみたいなものも行ったけど、結構ツアーとかじゃなくて、ほらなんて言うんですか、もう単独で行くような。行って、向こうで自分たちで行きたいところ全部探してとか、もう結構やってたみたいだし。」
借金してでも単独で海外旅行に出かけてしまう──そんな姉妹の決断力が、「それいゆ」の原動力となった。
一方、桃江さんの父はジャズの演奏家だった。
「うちの父はジャズのあの、なんていうのかな、いろんなアーティストの歌手とか、アーティストの外国の方だったりとか、ルイ・アームストロングだったり、なんかそういう人が来た時にバックで演奏するとか、すごいあのなんかの歌番組とかの後ろで演奏するとか、そういうのをやってる演奏家だったんですけど、それで結構ここにはいなかったんですよ。あんまりその音楽の仕事してる時は全然いなくて、もう母と叔母だけでずっと回してたんですけど。」
おそらくこれが、今日に至るまでジャズが「それいゆ」の主要なBGMであり続けてきた理由だろう。芸術の薫りと、姉妹のたくましいバイタリティ。この両者が、創業期の「それいゆ」を形作っていた。

美人姉妹が経営!時代を象徴した珍しい喫茶店
時代は安保闘争や学生運動が盛んだった1960年代後半。若いエネルギーが街中に渦巻いていた。
「昔はね、私が聞いているのは、まあ、あの、そのちょうど時代が時代で、あの、安保闘争があったりとか、学生運動があったりとか、なんかちょっとみんながこう、カッと目覚め出したみたいな。若い人たちが自分たちの意思でこう動くぞみたいな感じになりだした時だったから。なんか、やっぱそういう人たちが、若い人たちが出入りしてたっていうのは聞きました。若い人の方が多かったと思いますね。で、本人たちも若かったので。」
そんな時代に、若い女性たちが──しかも姉妹で──喫茶店を経営しているということ自体が、当時の客にはかなり珍しく映ったようだ。
「しかも女性がやってるっていう、女性が飲食をやってるっていうのがあんまり居酒屋みたいなところ以外でなかったみたいなんですよ。だから、なんか姉妹でやってる。しかも当時は美人だったと。美人姉妹だったと。写真見て。そう、イケイケな感じで。華やかな感じのイメージでやってたみたいだから、なんかそれが珍しくて来てるっていう人もいたみたいですね。」

「その時はもう本当にまだ女の子がね、働く場所って言ったら、本当にそういう小料理屋だったりとか、本当にカウンターのあるスナックとかだったりとか、そういうところがすごくまだ多くて。男尊女卑とかがすごくやっぱり強かったし、女の人が前に出て自分たちの裁量で働くとかそういうことがなかった時代だから、なんかそれが珍しく映ってっていうのはありましたね。」
その物珍しさも相まって、店は多くの人々を引きつけた。やがて女性が社会へと進出していく時代の風潮と、喫茶店でのアルバイトブームが重なり、近くの東京女子大学の学生たちが店頭に立つようになる。
「東京女子大が近くにあったから、あの東女の学生さんがすごくアルバイトで入ってくれて、それもあって、なんか本当に男性がまた来ちゃうみたいな。ことはありましたね……本当に女の人たちが強く出てくる時だったから、若い女の人たちって、それもあって。東女もそんな感じでしたよね。」
学生たちが身につけていたのは、ピンクやブルー、オレンジの特注エプロンだった。
「お揃いのエプロンでした。ピンクとブルーとオレンジみたいなやつかな。なんかいかにも80年代みたいな感じの。あと、これはもう普通の黒いエプロンなんですけど、ここにマークの入ったエプロンを特注して作ってたりとかして、それいゆのマークのウサギの。」
その色鮮やかな光景は、当時の西荻窪をパッと明るく彩っていたに違いない。

新聞とタバコ、賑やかな相席文化から体験の場所に
創業から現在に至るまで、「それいゆ」は時代の移ろいとともに変化する人々の姿を見つめてきた。30年以上前、街にはジャズ喫茶や名曲喫茶が当たり前のようにあり、年配の夫婦がこぢんまりと営む名もなき小さな喫茶店が人々の日常に寄り添っていた。
「すごいもったいないな。今ね、まだ残ってたらすっごい流行ってたと思う。名曲喫茶あったし。あと普通のおばあちゃんが1人で、おじちゃんとおばあちゃんが1人ずつでやってるような、夫婦でやってるようなちっちゃい喫茶店とか。やっぱ東の方が多かったですね。下町の方とか。新宿より向こう側がすごい多かった。」
当時の「それいゆ」は全席喫煙で、客層の8割を男性が占めていた。近隣の名店「どんぐり舎」や「こけし屋」も似たような景色だったという。
「全然男性でしたね。あの、まあタバコ全席喫煙なのもあって、つい最近まで全席喫煙だったんですけど、まあそれもあったから、女性もまあちらほらはいたけれど、やっぱ男性の世界というか、どちらかというとあの新聞ガーッと開いてコーヒー飲みながらタバコ吸って、ちょっと居眠りしてまた会社に行ってみたいな、なかなかその男性男性の世界みたいなところはあったんですけど……圧倒的にやっぱ男性のお一人様っていうのがすごく多くて。常連さんとかも男性1人、女性1人の方が多かったですね。」

「昔はもうだいたいみんな読書してるか、新聞か。そんなにこう、手持ち無沙汰にぼんやりしている人もいないし、誰かと一緒に来てペラペラとおしゃべりしてる人よりは、1人で来て本読んでる人たちのほうが多かったのかな。」
混雑時には見知らぬ人同士が相席になるのが当たり前のおおらかな時代でもあった。
「私もまだ学生の頃手伝ってた時は、まだギリギリ相席いいですか?って聞いたらいいですよっていうのが全然普通な時代で、30年以上前はまだ相席よろしいですか?って聞ける時でした。だから4人席に1人でいらしたから『すいません。こちらのお席もお一人様お連れしていいですか?』って言ったら『大丈夫ですよ』とかって椅子をずらしてみたいな。」
「会話が生まれてました。確かにちょっと話してちょっと気が合ってたら、そのままずーっとしゃべってて、ずーっとコーヒー飲んでてみたいな。」
しかし、時代は急激に変化する。2020年に施行された改正健康増進法による原則屋内禁煙の波を受け、「それいゆ」も全席禁煙への切り替えを決断した。
「常連さんがすごく多かったから、いやぁ禁煙はできないよなって言いながらそのままやってたんですけど、もうでも世間がもう全部そういうふうにダメって言ったら、うちもじゃあすいません、ダメですって言えるから。それでやっと踏み込めました。」
「子ども連れとかも増えたし。それは関係あるかもしれないです。すっごい関係あります。ただ、やっぱりそのやった瞬間はお客さんガクッと落ちて……禁煙のお店だっていうのが認知されるまではすごい半年~1年ぐらいはなんかすっごい苦しかった時がありましたね。なんか常連さんも離れちゃってて、いまいちその禁煙だってことが知られないし。」
悲しそうな表情を少しだけ覗かせた桃江さんだが、禁煙化を機に、女性や家族連れが少しずつ訪れるようになった。さらにコロナ禍を経て、人々の「喫茶店での過ごし方」はさらに変化していく。桃江さん自身は、その背景を次のように見ている。
「本当に女性とかお子さんとかが来出したのは本当にここ数年。全然数年。それまでは8割男性。」「この20、30年ですよね。20年ぐらいでも全然ガラッと人が変わりますよね。コミュニケーション自体も変わりました。」
「あ、そうですね。スマホもないですよね。あとやっぱコロナが結構もうすごく決め手だったというか。もうパーソナルスペースみたいなのが決め手だったけど、でもなんか、コロナだけじゃない気がする。」
隣の席の客に話しかけるという行為そのものも、今ではあまり見られなくなった。「昔はそれがほとんど一般的だった。全然気にしなかったです」と桃江さんは振り返る。
パーソナルスペースが重視される現代において、喫茶店に求められるものは「味」だけではなくなった。「なんか、食べ物、食べ物でどうも美味しいとかそういうんじゃなくて、どちらかというとその場所とか雰囲気とかが体験しに来てるんだろうなって思う感じが最近は多いなと……女性のお客さんは雰囲気を大事にしている方が多いと感じています。食べれば想像がつく家庭料理を出していることが多いから、場所や雰囲気を体験しにきている人が最近多いかな。」
今、「それいゆ」は「相席文化」から、その空間と空気を味わう「体験の場所」へと静かに形を変えている。

アニメCGの「適職」から、「それいゆ」という「天職」へ
そんな桃江さん自身も、大の喫茶店好きである。「私もすっごい好き。本当に下町の方からこっちの西の国立とかの方までいろんな喫茶店行って。そこでタバコ吸いながら、ガーッとタバコ吸いながらガーッとコーヒー飲んでガーッと本を読むというのがすごい好きで。」
路地裏の古い街並みや喫茶店を愛好していた桃江さんだが、実は当初、家業を継ぐ気は全くなかったという。両親が店にかかりきりで土日のお出かけがなく、子ども心にコンプレックスを抱えていたからだ。
「やりたくなかったです。全然やりたくなかったです。そもそもなんかやっぱり子どもの時は周りが会社員で、土日がみんなお休みで、日曜日がお休みで。休日は家族でみんなでお出かけしたりとか、で、授業参観とか個人面談だとか、そういう時必ず親御さんが来てとか、うちやっぱ忙しかったからそういうのもなかったし、家に帰って誰もいないとかっていうのとかがすごく嫌で。だからちょっとコンプレックスだったんですよ。その自営業コンプレックスみたいな。なんでうちは商売やってんのかなみたいな、子どもの頃だけど。」
大人になった桃江さんは、アニメのCG制作という「適職」に出会い、仕事一筋の日々を送っていた。しかし、体調を崩して休養していた時期に起きた、母親の事故が大きな転機となる。
「ちょっと大きかったのが、あの自宅で母が階段から上から下までダーッと落ちたっていう時があって、派手に落ちて。で、その時にちょうどなんかお店のなんだっけな、店の食器を持ってたか、お菓子を持ってたか、何かお店に関係するものを何か持ってて。で、それで階段を降りてる時に足を踏み外してダーッと落ちたっていうのがあって。で、それの時に母は以前から階段が怖くなったとは言っていたけれど、本当にいつの間にか年をとってしまったことに初めて直面して。で、その時にもしここがなくなるとしたら私はいいのかな、いいかなって思って。」

「結婚する前だったか、それは。なんか、その母親の老いをちょっと見た時に、このお店をもし誰かに渡すとしたら気が済むかなっていう。なんか、この店の前を通れるかなと。新しくなったお店の前で、私が関係のないお店の前を通れるかなって思ったら、あ、無理かもって思って。っていうか、多分西荻にいたくないと思うだろうなって思って。でもここまで子どもの頃からずっと住んでる場所で行けない場所ができるのはちょっとしんどいなって思って。」
この強烈な感情に直面した時、桃江さんは初めて「お店を継ぐ」という選択肢と向き合った。28~29歳の頃のことだった。CGの仕事はどうだったのか尋ねると、桃江さんはきっぱりとこう答えた。
「すっごい楽しかったんですよね。自分に合ってると思ってて。ものすごい天職だって思ったんですけど、体調が悪くなっていることにも気づかないくらい仕事が楽しくて適職だと思ったんですよ。でも天職はこっち(「それいゆ」)だったんでしょうね。」
「正直私こう言っちゃ何なんですけど、料理すごく苦手なんですよ。で、どっちかっていうと作るより食べる方が好きだから。作ってもらって食べるっていう方が本当は好きだから。で、しかもあんまり、あの、こういうのやっててなんなんですけど、人と喋るのがあんま好きじゃなくてすごく緊張しちゃうタイプだから。友達もすごい多い方じゃないし。接客業でこういう仕事は合わないって自分でわかるんですよ。わかってるけど、天職だと思ってるんですよね。自分には合っていないかもしれないけれど、私がやるべきことはこの仕事なんだろうなっていうのを思っているので。自分に合ってたのはその前の仕事だったけど。」
「適職」を手放し、「天職」を選ぶ。その柔らかな語り口の奥には、店を守り抜くという力強い覚悟が確かに存在していた。
学生時代から手伝いとして店に入っていた桃江さんは、CGの仕事で体を壊して療養していた時期に、仕込みなどを少しずつ担うようになる。フリーでCGの仕事も続けながらの同時並行期を経て、徐々に「それいゆ」の比重が増し、CGの仕事はお断りすることが増えていった。「やってるうちにこっち側に。」
現在は、引退して介護を要する状態にある母に代わり、現役で働く叔母、そしてもう1人の店主でもある従姉妹の亜希さんとともに、「それいゆ」の暖簾を守っている。性格は違えど、従姉妹とは考え方や緊張しやすい気質はよく似ているという。「ピーちゃん(亜希さん)は割といろんなとこを広く見ながらやるタイプ」だと桃江さんは話した。

ナポリタンと歴史ある水出しコーヒー
「それいゆ」のメニューには、創業期から続くカレーのほか、長く愛されるオムライスやナポリタン、そして手作りケーキなどが並ぶ。しかし、かつてはタイカレーを提供したり、ハンバーグだけでも3、4種類用意していたりと、かなりバリエーションが豊かであった。
「うちの母がすごい料理が好きで、ここで昔タイカレーやったりとか、ハンバーグも3、4種類あったりとか。あとなんだっけ、五徳を持ってきて、固形燃料を置いてチャッカマンで火つけて、そこで鍋をする。あさりのリゾットみたいなスープリゾットみたいなものを、ここで鉄鍋を置いてクツクツ、クツクツ、クツクツクツっていうのをコーヒー飲みながら待つみたいな…… やってたりとかして。」
客席に五徳と固形燃料を持ち込み、目の前で鉄鍋でアサリのスープリゾットを煮込む──想像するだけで胸が躍るような光景である。しかし、当時の桃江さんから見ると、そのメニューの数々は「迷いがあるように」映ったのだという。
「やってる分には確かに面白いんですけど、当時の私からしたら思いついたことを片っ端から出して、根付かないうちにまた思いついたことを始めて、というように見えて。それってあまりその全てのメニューが定着しないままずっときてるのが、それってあまり、もう、そういうのが1個ぐらいあってもいいけど、でもなんかもうちょっと定番のものがあってもいいんじゃないかなとか。」
意外なことに、自身は料理が苦手だと謙遜する桃江さんだが、現在の大定番メニューである「ナポリタン」は、そんな彼女の気づきと、会社員時代の経験から生まれたものだ。

桃江さんは、アニメ業界で働いていた頃、同僚や先輩とランチに出かけるたびに、皆が決まってナポリタンを頼んでいたことを思い出す。「凝った名前のメニューよりも、カレー、ナポリタン、オムライスのような、日本人なら誰もが食べたことのある、すぐに想像のできるものをみんなが選んでいた。とりわけナポリタンの人気が突出していたので、なぜそんなにナポリタンが好きなのかと彼らに尋ねるとこう返ってきた。「やっぱり味がわかっているもの食べたくなるものなんだよ、安心だからね。」
売上が厳しかった時期、桃江さんはこの言葉をヒントにナポリタンの導入を提案した。母と叔母からは強く反対されたという。
「すごく最初母たちはすごく反対して、そんな地味なもの、家庭で食べるものだからお家で食べるものでしょって言って。家でそんなお母さんがパパッて作るようなものは店で出せないわよって言って反対して。」
しかし、桃江さんは従姉妹の亜希さんとともに「絶対こっちの方がいい」と押し切り、ナポリタンの提供を始めた。結果は予想通り、瞬く間に店の定番となった。母と叔母は、そんな結果を少し悔しがっていたようだ。
同じく人気のエビピラフは、創業期からの定番メニューだ。
「あ、ピラフは昔からありました。あれはチャーハンみたいなもので。」気取らないおおらかさと飾らない空気が、こうした長く続く1品にも息づいている。こうした温かな空気感こそが、この場所が長く愛され続ける一番のスパイスなのだろう。そして、手作りのケーキたち。母と叔母が独学で考え、さまざまなアレンジを加えたレシピは、なんと約400種類にも及ぶ。
「ずっと母と叔母がレシピを作ってて。本当は全部で400ぐらいあるんですけど、でも私たちが引き継いでるのそんななくて、本当に半分もない。100もないかな。」基本となるレシピに材料や仕上げを変えて組み合わせていく作り方だ。母は自分のレシピにすごく自信があったようで、「絶対これだけはお前に引き継ぐよみたいな感じで全部ノートに書いてくれて、それは今でもちゃんと確認しながら作っている。」と話す。
「よく言えばざっくりと作る。本当にホームメイドというか。本当にホームメイドなんですけど。なんかあの、誰もパティシエみたいな人いないので。あのベースは私と従姉妹が作って。で、あの、仕上げとかはもうスタッフが。若いスタッフと叔母が交代で仕上げてくれています。専門的なお菓子ではないですが、家庭料理の延長だと思っているので、デコレーションは彼らのイメージでお願いしています。」
新しいメニューを開発するというよりは、母から手渡されたレシピノートを忠実に再現するのが桃江さんのスタイルだ。一方、従姉妹の亜希さんは「試行錯誤するタイプ」で、新商品やお菓子を自分で考えて作ることが多いという。「私はどっちかというともうあるものを忠実に作るタイプ。」と桃江さんは語る。

店内を見渡せば、「それいゆ」のシンボルとも言える巨大な水出しコーヒーの器具がそびえ立つ。40年ほど前から稼働しているこの装置が、深い味わいの源だ。
「だいたい10時間とか。10時間ぐらいかかって1回分が落ちる。あれで25人前、1本で25人前で、それが10時間か12時間ぐらいかけて落ちて、また新しいのをやって。」
母たちの代に卸業者と話し合って決めた、こだわりのブレンド。水出しの後に温めても香りが飛ばず、雑味が出にくい味わいに仕上がっているのだという。卸業者そのものも世代交代を経験しており、先代の廃業を経て、若いスタッフが店を引き継いで「それいゆ」との取引を続けているという。
「メーカーはあるんですけど、この量のものを作ってない。今10年前からここのところ作ってない」と桃江さんが言うように、現在ではこの装置と同じ規格のものは作られていない。
東日本大震災のあの日。近所にいた桃江さんは「もうお店はダメだ」と覚悟して駆けつけたが、築60年以上の古い建物は無事であり、繊細な食器やこの貴重な水出しコーヒーの器具も奇跡的に無傷だった。
メーカーが製造を打ち切ったため、コーヒーの器具は「割れたらアウト」という代物だ。震災を乗り越え、今日も静かに、ポツリポツリと美味しいコーヒーを落とし続けている。

たくさんの人に愛される「それいゆ」 ── 受け継がれる温かなつながり
「経営において一番大変なのは『人』」。そう語る桃江さんは、スタッフがいかに楽しく気持ちよく働けるかを常に最優先に考えている。
「人、人ですね。本当にスタッフの人たちをいかに気持ちよく働いてもらえるか。みんなが楽しく気持ちよく働けるかということに関しては、多分一番今まだ全然できてないし。もうそれがね、難しくて、本当にいかにその、ここで嫌な思い出を作らないで、こう楽しく働いてもらえば。」
「もしかしたら今一番考えてる」のがスタッフのことなのだと、桃江さんは続けた。
共著者であり、現在ホールスタッフとして店に立つ荒井も、その言葉に深く頷く。桃江さんは、スタッフ一人ひとりが無理なく、気持ちよく働けるよう、いつもさりげなく気を配ってくれる。そうした心遣いがあるからこそ、忙しい日々のなかでも店の空気は穏やかで、働く側も自然と前向きな気持ちでいられる。その底抜けの温かさはスタッフに伝わり、結婚や出産といったライフステージの変化を迎えるまで、長く働く人も少なくない。

「なるべく続けてほしくて。一回同じ釜の飯を食べたからには、仲間みたいな。一回働いたからにはもう仲間みたいな気持ちがあるというか。ちょっと本当に同じご飯を食べたら仲間だなっていう感じ。」
実際、スタッフの多くは就職や結婚、引っ越しといったライフステージの変化を迎えるまで長く勤め、一度離れても声をかければ戻ってきて手伝ってくれる人が少なくない。「そういうのにすごくうちは恵まれてる方だとは思うんですけど」と桃江さんは話す。
その温かな縁は、スタッフだけでなく、お客さんとの間にも紡がれている。お店にはお客さんとの長い歴史が刻まれており、創業当時から毎日欠かさずモーニングを食べに来る常連もいる。
「叔母と同い年の方が毎朝絶対モーニング食べに来て、土日もちゃんと並んで入ってくれる。」
その縁は店内にとどまらず、西荻窪という街全体へと広がっている。たとえば、建物の老朽化に伴う建て替えのため2022年3月末に一時閉店するまで、ほぼ毎日のように通ってくれていた名店「こけし屋」の方々をはじめ、地元のつながりは深い(こけし屋は新しいビルで2026年6月グランドオープン)。
こうした「人のつながり」の集大成とも言えるのが、60周年のギャラリー開催だった。長年、年齢がバレるからと周年の公表を避けてきた母や叔母だったが、ふと立ち止まれば60年という節目。
「それは最初は本当に思い立って、私が50周年をやるのを忘れちゃったから、ちゃんとどっかでなんか何周年とかっていうのやんなきゃいけないなと思って。昔の会社とか団体って、社名の入った手ぬぐいを宣材として作ってパーッと配って宣伝するみたいなことをやっていましたよね。あれでうちも手ぬぐいを作りたいと思いました。たまたま私も手ぬぐいユーザーなので。」

きっかけは、保育園のママ友として再会した幼なじみの手ぬぐいデザイナーとの縁だった。
西荻で手ぬぐいデザイナーをしながらギャラリーも運営する幼なじみがいた。小学校で同じ地区の子だったが卒業以来音信不通で、何十年も経ってから子どもたちの保育園で偶然再会し、ママ友として付き合いが復活していた仲だった。手ぬぐい制作の依頼を持ちかけると、彼女は「ああいいよ、やるよ、やるよ、面白いね」と二つ返事で引き受けてくれた。最初は「うちは飲食だし、展示するものなんか何もないよ」と思っていたが、幼なじみは「絶対その思い入れのある人たちがいっぱいいるから、そういう人たちに声をかけて、いろんな作品を集めてってやるのはどうだろう」とアイディアを出してくれた。彼女がギャラリーのプロデュースから出品者とのやりとりまでを一手に引き受け、展示会には「それいゆ」をモチーフにした多くのアートと思い出が集まった。
「自分はここでこういうあずかり知らぬところで、そういうなんか誰かの人生が変わっていたりとか、人と人とが出会っていたりとか、ここで今の結婚相手と出会ってみたいな、初めてここでデートしたんですとか、なんか自分の全然知らないところで全部のなんか糸がつながってて、全部が自分の助けになっていると、支えられているなっていうのをすごく感じました。」
桃江さんは、コロナ禍を含めて、長く続いてきた店だからこそ得られる「町や人とのつながり」の力をこの数年で痛感してきたという。
「本当にその人とのやりとりとかがすごく苦手な自分だけど、やっぱり結局はそういうものに助けられて生きていくんだろうなっていうのはすごく感じましたね。その町とのつながり、人との町とのつながり、人とのつながりに、結局は自分はそこにつながって生きているっていうことを思い知らされるような。」
そう語る桃江さんの言葉には、街への深い感謝が滲む。お酒の力を借りるわけでもない、ごく普通の喫茶店で、これほどまでに深いつながりが生まれるのはなぜか。その根底には、先代である母の人柄と、人を引きつける求心力が確かに流れている。
「でも確かに母はすごい求心力があるというか、人を引きつける力が今でもあって、デイサービスに行ってても、そのスタッフからめっちゃ絶大な人気を得てて、病院のスタッフとか病棟の人とかにすごい親しまれてるとか、なんか不思議とそういうキャラクターがあったりとかして、 とてもじゃないけど、そういうのには追いつけないんですけど。でもまあ、そういうのはわかる方ではありたいと。そういうことは感じれるだけのレーダーはちゃんと磨いておかなきゃいけないなとは思うんですけど。」

「今が人生のハイライト」 ── 仕事、子育て、介護と向き合う等身大の働き方
お店の暖簾を守る桃江さんは現在、小学5年生と中学校1年生の子どもを育てる母親でもある。自営業での子育ての過酷さから、「子どもには絶対に(お店を)やってほしくない、すごく大変だから」と本音もこぼれる。
「やってほしくないです。絶対やってほしくない。そう。だから誰か、やってほしくないって思っても、でも誰か本当にいないかなとは。誰か一緒に、一緒にそういう風に同じ方向性でなんか考えてくれる人が、若い人たちがいたらなっていうのは、多分年を取ってもっと力がなくなってきたら感じるだろうなと思って。」
子どものころに「両親が週末に家にいない」のが嫌だった経験を踏まえ、桃江さんはなるべく土日は子どもと過ごすようにしている。荒井をはじめスタッフが土日に主力として入ってくれているおかげで、それが可能になっているのだという。
桃江さんの1日のスケジュールはまさに目まぐるしい。
「朝は子どもたちを送ってから介護中の母の世話をして。デイサービスも使っているのでその準備をしてからお店に出る日はそのまま店へ行きます。出ない日は経理や事務関係のものや切れた物の買い出しとか。お店に出る日はだいたい夕方までやったら買い物に走って、帰ったらまず子どもらに宿題やりな!ってギャーギャー言いながらご飯作り。そうこうしていると母もデイサービスから帰ってくるので、みんなにご飯食べさせたりアレコレやってその後仕込みの残りをやってたり。どのお仕事をされている方も同じ感じだと思いますが、やっぱり忙しいです。」

夫はかつて桃江さんと同じアニメ会社で出会った同業者で、今もその会社でアニメの仕事を続けている。「激務だからあんまり家にいないから、まあでもお互いそんなに干渉し合わないから、もう元気でいてくれればそれでいいんで」と桃江さんは話す。
激務の夫によりほぼワンオペ状態だと笑い飛ばしつつも、桃江さんは「今が人生のハイライト。一番頑張る時なんだろうなと思っています」と語る。
家族は今も西荻のすぐ近くに住む。「家はもうすぐ本当にちょっと荻窪の方に向かったところなので、自転車で本当に2、3分、3、4分ぐらい。助かりますよね。近い。」
実は桃江さん自身も、子どものころは「それいゆ」のすぐ近くのマンションに住んでいた。
「猫の手書店の上に住んでて、で、鍵を取りにここまで来たりとか、宿題をここでやって帰るとか。まさにこの席で宿題を、この席で。ランドセル持って。終わってからランドセルをこのまま置いて遊びに行ってとかやってました。」

通っていた小学校は、今、彼女の子どもたちが通うのと同じ高井戸第四小学校、通称「たかし」だ。桃江さんは「同じ道を歩んでるみたいな感じ」と言う。
かつて桃江さん自身が「それいゆ」のテーブルでランドセルを置いて宿題をしていたように、今はお子さんたちが地元の小学校に通い、西荻窪の街と店に見守られながら育っている。
「全部まとめて投げるみたいにやるしかない。それでなんとかやれてる。」
仕事、子育て、介護。すべてを全力で回す桃江さんの奮闘と、その背中を支える西荻窪のコミュニティ。最後に残るのは、きっと飾り立てない「人柄」そのものなのだろう。母から娘へと受け継がれた、人を思いやる誠実な姿勢。「それいゆ」という空間を満たしているえもいわれぬ温かさは、桃江さん自身の人間味と、この街の人々が60年かけて共に醸成してきた、かけがえのない宝物なのだ。
(ファーラー・ジェームス、荒井香穂 2026年9月1日、2026年3月10日のインタビューより)


