ブルースが流れる地下の交差点

西荻窪駅北口を出て左側、伏見通り商店街を進むと見えてくる大きな赤鳥居。その鳥居をくぐって奥に進むと看板があり、右手のビル地下に「ほうぼう屋」がある。そこはブルースの流れるダイニング・バー。一見すると酒場という感じであるが、しっかり食事も出来る飲食店である。現在はランチから営業している。しかし、ふとした瞬間、ほうぼう屋はそれだけでは説明できない場所に思える。音楽、料理、飲み物、会話、そして西荻らしい人のつながりが、地下の小さな空間でゆっくりと交差する。
店のオーナーであり料理人は、好子さん、通称「すーさん」である。岩手から上京した若き日にブルースと出会い、音楽関係の仕事を経験し、一人海外を旅し、飲食の現場で働きながら、自分の店を西荻につくってきた。その長い物語とブルースへの想いは、今も店の空気の奥に流れている。新規のお客には、メニューや店の成り立ち、ブルースや音楽について説明する。常連客には気さくに声をかける。ときには隣り合った客同士をゆるやかにつなぐこともある。ブルースの店と聞いて少し身構えて入ってきた人にも、ここは音楽に詳しい人だけの場所ではなく、食事をして、飲んで、会話をしてよい場所であることをそっと示している。
ほうぼう屋は、たしかにブルースの店である。店内にはブルースやアメリカ南部にまつわる物が散りばめられ、BGMには、戦前のものからその影響を受けた最近のものまでの幅広いブルースと、ブルースに影響を受けた音楽が流れる。メニューには、ガンボやジャンバラヤ、そしてナマズのソテーといったアメリカ南部を思わせる料理もあれば、オムライスやカレーのように、日本の洋食料理もある。その共存もまた、ほうぼう屋らしい。ブルースというマニアックな音楽を押しつける店ではなく、あくまでブルースを知る入り口となりながら、食べること、飲むこと、話すこと、そして少しだけ元気になりたい人々を受け止める店なのである。
その奥にある物語は、すーさん自身の人生から始まる。彼女にとってブルースは、単なる趣味でも、かっこいい音楽のスタイルでもなかった。若くして東京に出てきて、貧しく、孤独で、それでも自分の力で生きようとしていた時期に、ブルースは彼女に「降りてきた」。 その音楽は、苦しみや貧しさや弱さを隠さず歌ってもいいのだ、という発見でもあった。

ブルースが「降りてきた」頃
すーさんは岩手県北上市の出身である。子どもの頃から音楽が好きで、中学の頃はロックに夢中になっていた。
「中学のころはロックに夢中になって、好きなミュージシャンはと言えば60年代70年代の人が多かったんです。例えばローリング・ストーンズとかジミ・ヘンドリックスとかジャニス・ジョップリンとかクリームとか…いろいろ。そういう人達はみなブルースに影響を受けたロック・ミュージシャンだったんですよね。それで『お〜そうか!ブルースという音楽があるのか!!』という事で、ちょっとそっちも聴いてみたんですよ。例えばロバート・ジョンソンとかスキップ・ジェームスとか。そしたら全然ピンとこなくて ブルースが。…なんじゃこりゃって。 カバーしてる人たちのほうがよっぽどかっこいいなって思ったんですよ。」
ロックを通じてたどり着いたブルースは、当初、彼女の心に強く響くものではなかった。むしろ、ブルースをカバーしていたロック・ミュージシャンたちのほうが格好よく聞こえたという。それが変わったのは、1980年、十八歳で岩手から東京へ上京してからだった。
当時、すーさんは家族、とくに父親との間に大きな葛藤を抱えていた。
「私18歳のとき岩手から東京に出てきたんですよ、1980年でした。実は元々大学に行きたかったんですよね。ジェームスさんがお勤めされている上智大学に(笑)。けれどうちの父親が『女は高校出たら地元で就職しろ、大学なんぞ行く必要はない』というような考え方の人だったんです。そんなこんなでずっと揉めてて…。それで『もう分かった、じゃあ親の援助なんか一切受けないから1人で東京行くって。』…だから私、半分家出同然で東京に出てきたようなものなんですよ。それで昼間働きながら夜学のデザイン専門学校に通ってました。」
しかし、東京での生活は厳しかったそう。
「結局親からの仕送りも何もないから、昼間働いた給料で、生活費も学費も全部賄わないといけない。 だから結構貧乏(笑) 。恥ずかしいほど貧乏生活してたんですよ。…風呂なしの共同玄関、共同トイレのボロアパートで、阿佐谷だったんですけど 。食費も切り詰めないといけないから、よくパン屋さんに行ってパンの耳買って食べてましたよ。大量にビニール袋に詰められてて当時20円ぐらいでした。皆さん野鳥やフナの餌として買ったりしてたんでしょうけど、私は餌買うふりして自分で食べてました(笑)。それぐらい切り詰めないと生活出来なかった。」
そのような生活の中で、彼女はあるブルースミュージシャンのレコードを聴いた。そこで歌われていたのは、貧しさそのものだった。
「そんな生活を送っていた時にブルースが降りてきたんです。あるブルース・ミュージシャンの歌を聴いた時に。その人のブルースは貧困を歌ったものだったんですけど『毎日食べるものも稼ぎもない。それなのに俺は5人の子どもをかかえてる。そんな俺は台所にいるネズミにさえ馬鹿にされている…』っていう歌なんです。それ聴いて私は『そんな事を歌にしてもいいんだ…』って思いました。そしてそんな歌が当時の私にはとても響いて、何だか救われた思いだったんですよね。そんな事を歌にしてもいいんだったら、私もちょっと吐いてみようかな。この苦しい生活や色んな事、心の内を吐いてみようかなって。それで鼻歌で歌ってみたんですよ。そしたらなんか心が少しスーッと軽くなっちゃったんですよね。で、『これがブルースなんだ』って。」
「阿佐谷のボロアパートで聞きました。レコードで。スリーピー・ジョン・エステスっていう盲目のブルースマンなんですけど。 盲目で、本当に貧乏で貧困を歌ってる歌が多いんですけど。…何にも持ってなかったけど、その音楽だけは自分の中の救いというか、一番のものだったんで、そこにだけはなんとかお金かけれるだけかけましたね 。」
何も持っていなかった部屋で、レコードだけは聴けるようにしていた。すーさんにとって、ブルースは単なる店のコンセプトではなかった。むしろそれは、苦しい生活の中で、自分の内側にあるものを外に出してもいいのだと教えてくれる音楽だった。
だから、ほうぼう屋に流れているブルースは、単なるBGMではない。店の奥にあるのは、貧しさや孤独や悔しさを、美しいものに変えるというより、それらをそのまま抱えながら、それでも人と人が同じ空間にいられるようにする力である。

阿佐ヶ谷、音楽の現場、そして身体で覚えた仕事
1980年代の阿佐ヶ谷には、ブルースを聴ける店があった。
「私がよく行ってたお店は『ギャングスター』っていう阿佐谷の一番街のどん詰まりの方の二階にあったんですけど、もうウナギの寝床みたいなせんまい店でライブもやってるお店だったんですけど、そこによく行ってて。 今もうないんですけどね。でもそのお店のマスターだった方は、現在福島でブルースのお店をやっています。」
すーさんはその後、憧れていた音楽雑誌の会社にも入った。その採用のエピソードは、彼女の若さと音楽へのまっすぐな思いをよく表している。面接で「体で表現してみて」と言われ、社内にあったアコースティックギターを借りて一曲歌ったのだという。
「最後にその方に、『そんなに音楽が好きだったら、ちょっと体で表現してみて。』って言われて 。演劇のオーディションじゃあるまいし、体で表現しろって言われてもどうしようと思って。…アコギがあったんで、それを借りて緊張で震えながら一曲歌ったんですよ。 そしたら、決まりました。 決まったんですよ。『 じゃあいいよ君で。』って言われて…」
音楽雑誌の仕事を経たあとも、すーさんと音楽との関わりは続いた。なかでも大きな経験となったのが、米軍キャンプで日本人バンドの一員として歌う仕事である。日本にありながら、ゲートをくぐるとまるで別世界のように感じられるその場所で、彼女は観客の反応の厳しさと率直さに圧倒された。
「米軍キャンプの中って、あそこは日本にありながらアメリカなんですよね。ゲートをくぐると、そこはカリフォルニア州だったりするわけですよ。そんなゲートの中の観客の反応はと言えば、もの凄くシビアというか素直なんです。下手な演奏でもしようものなら、ブーイングどころか本当にビンとか灰皿とか飛んでくる世界。その代わりいい演奏の時には物凄い歓声!本当に嘘のない大歓声を上げるんです。もの凄いんですよそれが。アメリカ人はイエスかノーかがハッキリしてるんですよね。日本人みたいにお情けで拍手なんかしてくれない。だからその反応が私の物差しとなりました。」
ひと晩に四十五分のステージを五回。リクエストに応えるためには何百曲も叩き込む必要があった。歌えない曲を求められたときには、その客にマイクを渡して歌わせるような「やり過ごすための技術」も身につけた。
「例えば私が下手な歌でも歌おうものなら、そのバンドには2度と仕事が回って来ないわけですよ。そんなメンバー達の生活もかかっていると思うと、1人でトイレにこもってメソメソしてる場合じゃないって凄く思いました。そこからは本当に奮闘しましたよ。一晩に45分のステージが5回もあるんです。ステージの機材の組み立てやバラシも全部自分達でやるんですよね。本当にハードでした。北は三沢から南は沖縄まで全国を回りました。それで、あれやれこれやれっていうのにお応えしなければいけないジュークボックスバンドなわけですよ。できませんって言えない。答えないといけない。だから叩き込んでおかなきゃいけない曲も何百曲。その上ただ突っ立って歌っていてもウケないなので(笑)、カッコいいステージングとか衣装もアレコレ研究しましたよ。ティナ・ターナーのビデオ観たりして。どうやったらみんなを喜ばせる事が出来るだろうって…そればっかり考えてました。」
すーさんの語りには、音楽を「好き」という言葉だけでは捉えきれない経験が何度も登場する。音楽は彼女にとって、救いであり、仕事であり、自らを鍛える場でもあった。そして時には、「音楽は『音を楽しむ』じゃなかったの?それなのに…」という疑問を抱かせるものでもあった。そのようなさまざまな経験を経て、彼女は一度日本を離れ、インドへと向かった。

インドでの旅と、戻ってきた日本
二十八歳の頃、すーさんは一人でインドへ渡った。それが初めての海外経験だった。周囲からは「女の子一人で、しかも初めての海外がインドなんてやめたほうがいい」と止められたという。しかし彼女は、最も困難そうな場所を乗り越えることができれば、その後は何も怖いものはなくなるのではないかと考えたという。
その旅は、実際に厳しいものだった。マラリアにかかり、道端で倒れ、日本人の看護師に助けられた。その人が西荻に住んでいたという偶然も含めて、すーさんにとって、後の人生まで続く縁になった。
「その時に助けてくれたのが、なんと日本人の女性で、看護婦さんやってる医療関係者だったんですよ。…彼女が色々やってくれたから、今こうやって私生きてるけど、あのまんま彼女に見つけてもらえてなかったら、インドの道端でのたれ死んでました。…どこに住んでるんですか? って聞いたら『西荻』って言ったんですよ。私阿佐ヶ谷だったでしょ。 えーと思って。」
インドでの経験は、すーさんの人生観にも影響を与えた。
「本当に、いろんなことあった。よくぞ生きて帰ってこれたっていうほど。 だけどね、なんてありがたい国に私は住んでたんだろうっていうことはよくよくわかりました。 そして今まで悩んでたこと、そんなことはちっぽけなことじゃんって。 もう生きてるだけでめっけもんよ。 生きてた上でいろんな問題抱えてるのはみんな抱えてるのであって、まずはこうやって生きてられることに感謝しないといけないんじゃんって思いました。」
帰国後、彼女はアメリカ南部へ行く資金を貯めようと働いた。しかし過労から阿佐ヶ谷駅で倒れ、頚椎を痛め、入院と治療、リハビリで一年ほど動けない時期を過ごすことになる。貯めたお金もなくなった。その後、阿佐ヶ谷で世話になっていた女性の店が火事で全焼し、その人が西荻で新しい店を始めることになった。すーさんはその手伝いをすることになる。ここから、西荻との関わりが始まった。

常連客が押し出した、西荻の地下の店
その最初の店は、西荻窪駅南口近くの大きな地下空間にあった。維持費がかさみ、長くは続かなかったものの、店には多くの常連客がついていた。閉店の知らせを聞いて寂しそうにする常連たちの姿を目にしたとき、すーさんは初めて「自分で店をやる」という可能性を意識した。
「集まってた常連の方々がみんな寂しそうにしてるんですよ。『 俺たち私たち、これからどこに行けばいいの? こんなようなお店は他にないよ。』とすっごい寂しそうな顔をしてるのを見てて、ちょっと待て、お店っていくらあったらできるんだろうとか、どうやったらできるんだって初めてその時思ったんですよ。 それまでお店をやろうなんて思ったことないわけですから。」
不動産屋を回っても、店を始めるには保証金など大きなお金が必要だった。無理だと思っていたところに、「物件とは言えない」空間があると紹介された。それが、現在のほうぼう屋の場所である。
「ある不動産屋のオヤジさんが、『あのね、物件って言えないんだけどね。 ある空間があってね。 大家さんが誰にも貸す気がなくて、五年間ほったらかしになってる空間があるんだけど、その大家さんと俺って親しいんだけど見てみる?』 って言われて。見るのタダですから見たいですって一緒にその不動産屋のオヤジさんと一緒に来ました。 それがここなんですよ 。」
ほうぼう屋がある現在の場所は、もともとアニメのスタジオだったらしい。机や紙が置き去りにされ、飲食店として使える設備は何もない。ただの荒れた箱だった。しかし大家さんは、きれいにしてくれるなら安く貸してもいいと言ってくれた。そして、常連客が行動を起こした。
「すごい荒れ果てた状態で。今でこそこんなようにお店らしくなってますけど、ただの箱で飲食として使われるようなものも何もなくて。大家さんが『ここを綺麗にしてくれるんだったら貸してもいいわよ。あなただったら保証金も安くしとく』みたいな事を言ってくれたんですよね。」
この店の立ち上げは、単独の起業というより、常連客の手仕事と持ち寄りでつくられた共同制作に近かった。
「皆さんいろんな仕事をしてる人たちだったんですよ。 例えば劇団で大道具をやってる人がいたり、つまり大工仕事が得意な人がいたり、ペンキ屋でバイトしてる子がいたり、水回り関係の仕事をやってる人がいたり。…なんかお金かけなくてもできるかもよって話が、 私じゃない人たちで盛り上がってすごかったんですよ。…あれよあれよという間に俺じゃあまず掃除手伝うみたいな。…どんどんお店らしくなってったんですよ。 最終的には鍋釜もうちで使ってない炊飯器あるから使ってとか、皿もこんなん使ってとか。」
こうして、現在のほうぼう屋の原型ができた。最初からブルースの店だったが、ブルースのマニアだけが集まる閉じた世界ではなかったよう。
「南口にあった最初のお店は、彼女がオーナーだったけれどコンセプトは私に託したんですよ。彼女が阿佐ヶ谷でやってたお店は和風な居酒屋さんだったんですよね。ところが新しいお店、つまり彼女が『ここでやりたい』と言ったところに関してのコンセプトは私に託した。だから南口にあったその店もブルースのお店だったんです。そこに集うお客さんはと言えば、ブルース好きな人も中には居ましたが、店の雰囲気が好きだから来ているという人の方が多数でしたね。」

厨房に入り込む
ほうぼう屋は、ブルースの店であると同時に、料理の店でもある。すーさんは音楽の仕事をしながら、仕事がない時期には飲食のアルバイトもしていた。ほとんどが厨房の仕事だったという。なかでも六年半勤めた原宿のダイニングバーでの経験は大きかった。しかし、そこは女性が簡単に厨房に入れる世界ではなかった。チーフからは「女は厨房に入れない」と言われた。それでもすーさんは、ホールではなく厨房をやりたいと言い、まずは洗い場に入った。
「私、音楽の仕事しながら仕事がない時期もあったんで、飲食のバイトを並行して進めてたんですよ。ほとんど厨房の仕事だったんですよ。 だから料理に関してはそういった先々で色々学ばせてもらって。 一番長かったのは六年半いた原宿のダイニングバーだったんですけど、そこは結構本格的に厳しいところで、女は厨房に入れないって最初言われたんだけど、入り込んでった。...『私あのホールじゃなくて厨房をやりたいです。』って言ったら、厨房のチーフが『女は厨房に入れない』って言ってきたの。なので私は『だったらここでバイトしたくないです』って言ったんですよね。そしたら『じゃあ洗い場やって』と。洗い場も立派な厨房の仕事ですから。 ひたすら毎日毎日洗い場ばっかりやってましたよ。」
すーさんは洗い場を、ただの下働きとは見なさなかった。
「だけど、洗い場ってとってもいいポジションで、厨房の中が全部見渡せて、何をどうやってるかが全部わかるわけ。あのオーダーが入ったら、食材はそこから出して、こうやってカットして、こういうふうに盛り付けて、あのドレッシングをかけるんだとか、いろんなことが見えるんですよ。…なんていいポジションなんだろうって。洗い場って私はすごい前向きに思ってたんですよ。」
やがて、まかないを作る機会があり、さらに店のお通しを任される機会もあった。
「ある時、賄い作る手が足りないっていう時に、『ちょっと今日賄い担当してみろ。』ってチーフに言われて、やりますって言って。初めて洗い場以外の事をやらせてもらえる場面があって…そしたらまあ、皆さんに好評だったと。…次のチャンスが回ってきたのは随分経ってから。お店のお通しです。それってお店の顔ですよね。それを作ってみないかって言われた時があって…そしたらお客さんから評判良かったんですよ。私の作ったお通しが。それでチーフもしょうがねえなってことになって、少しは認めてやろうじゃないの?っていう風になって。…そこまで行き着くのにも、相当な時間がかかりましたよ。」
この経験は、ほうぼう屋の料理にもつながっている。厨房に入り込むこと、見て覚えること、洗い場を学びの場にすること。すーさんの料理は、学校で体系的に学んだものではなく、働きながら、悔しさを抱えながら、現場で身につけていったものである。

母として、店主として
店を始めた頃のすーさんは、結婚や出産をあまり考えていなかったという。とにかく、みんなの想いが込められた店を潰すわけにはいかない。その気持ちで必死だった。
「私はお店を立ち上げた頃、店の事以外考えられなかった。みんなの想いが込められた店だから、潰すわけにはいかないって、そんな皆さんの想いも肩に乗っかっちゃってるし、本当に必死でした。だから自分の中にいつか結婚しようとか子供を産むっていうのも全くなかったんですよ。 とにかく店のこと、守んなきゃ、やってかなきゃって。」
しかし、その後すーさんは結婚し、子どもを授かった。夜の営業を続けながら子どもを育てることは容易ではなかった。保育園に預けるために昼間の仕事に就いた時期もあり、その経験はやがて店でランチ営業を始めることにもつながった。離婚後は、シングルマザーとして店の経営と子育てを両立する日々が続いた。
「そこからはもうシングルマザーとして子育てと店の切り盛り。 ほんと奮闘しましたよ。 だって店は夜だし、子供は昼の生活でしょ。 普通に朝起きて学校に通わせなきゃいけない。 ご飯も食べさせなきゃいけない。 でも子どもが学校から帰ってくる頃には、私は店の仕込みがあるのでもう居ない。つまり鍵っ子にさせてるわけですよ。 だから寂しい思いさせるまいとして頑張りました。私も息子も頑張ったと思う。」
母と息子の生活は、時間帯がずれていた。それでも、お互いに歩み寄って話す時間をつくったという。
「歩み寄って、会う時間をどういうふうに設けようか。 私が深夜になって帰ると、息子が寝てたのを起きてくるんですよ。 それで今日学校であんなことがあった、店でこんなことがあったっていう話を持つ時間を作る。 それまでちょっと仮眠してるわけですよ、 息子。そうやってお互い歩み寄ったりしながら、不憫な思いはさせまいと思って頑張りました。」

オムライス、ガンボ、ブラックカレー
ほうぼう屋の料理は、アメリカ南部料理と日本の洋食が同じテーブルに並ぶ。人気メニューを聞くと、まず出てくるのはオムライスである。そしてガンボ、ジャンバラヤ、ブラックカレーが続く。
「一番人気は昔からあるオムライスです。なんだかわかんないけど、これが昔から一番人気あるんですよ。今、人気ナンバーツーはガンボ。『チキンとエビのガンボ』これがナンバーツーですね。ナンバースリーは何だろうな?ジャンバラヤかな。あと根強いファンが多いのが、ブラックカレー。」
ブラックカレーについては、ほうぼう屋でしか食べられないカレーを作りたいという思いから、試行錯誤を重ねた。黒い色は、イカスミや竹炭ではなく、ローストによって出す。
「ほうぼう屋でしか食べられないカレー作れないかなと思って。 すっごい試行錯誤を重ねて、失敗もいっぱい重ねて、行き着いたのがこのブラックカレー。イカ墨や竹炭で黒い色を出してるお店もあるけど、うちはローストで黒い色を出すんですよ。小麦粉やカレー粉をひたすら低温の油でじっくり炒り上げて、焦がす手間で火を止める。カラメルを作るような感じで香ばしさを引き出すんです。だから本当に手間暇かかりますよ。今でこそ黒いカレーは色々あるけれど、30年前は珍しかったと思います。」
ガンボやジャンバラヤのような南部料理については、レシピ本や実際に食べた経験を参考にしながら、ほうぼう屋の味を探ってきた。すーさんが重視するのは、「本場」のコピーではなく、自分の店で出す料理として成り立つ味である。
「いっぱいレシピ本あります、私。アメリカ南部料理の。ただ全部は真似しませんよ。こう書いてるけど、自分なりに、これはこういう風にした方がいいんじゃないだろうかとか。日本人だから提供するのは。日本人の口に合うには、ここはこういう風に改善した方がいいんじゃないだろうかとか。思いながら改善していったの。」
「ガンボってこれが正しいガンボっていうのがないんです。 その家その家、その店その店のガンボがあって、どれが正しいというものがない。だから『自分んちのガンボが1番美味い』って皆さんそう思ってるんですよね。そんな中、じゃあほうぼう屋のガンボはどうしようと思って、いろいろ試行錯誤を重ねました。」
店内の雑貨や装飾にも、アメリカ南部やブルースへの想いが詰まっている。すーさんが若い頃に必死で集めたもの、友人がプレゼントしてくれたもの、店をつくる時に手伝ってくれた画家の作品など、長い時間の中で積み重なったものが店の景色をつくっている。

ブルースの店、でもブルースだけの店ではない
ほうぼう屋はブルースの店だが、すーさん自身は、お客がブルースに詳しいことを求めているわけではない。むしろ、ブルースを知らない人が、料理や雰囲気をきっかけに少しずつ関心を持つことを大事にしている。
「全然そういう感じじゃない。うちのお店、ブルースって柱に一個掲げてますけど、ドリンク、フード、ブルース。だけどブルースに興味を持ってる人の方が少ないです。」
「だってそもそもブルース需要ってのが少ないもん。 世界的に見ても。 日本でも東京でも。だけどブルースがなかったら、ロックもジャズもリズム&ブルースもソウルも、ひいては日本のJ-POPって言われてるものも生まれなかった。 一番の源流ですから、これがなかったら全部生まれなかった大事なものなわけですよ。…ブルースマニアもいるけど、全くブルースなんか知らない、興味ない、音楽にさえ興味ないみたいな人も多いんですよ。 ただ、ご飯がおいしいから来てますとか、雰囲気が好きだから来てますとか、それでいいんです。…きっかけなんて何だっていいんです。」
この姿勢は、マニアックな音楽バーとは違う。知っている人だけが安心して入れる場所ではなく、知らない人も入ってよい場所にすること。
「よく私が好きで行ってたブルースバーって、知ってるマニアックな人ばっかりが集って、入りづらいんですよ、知らない人は。 入った日には『お前そんな事も知らないでここに来てんのか』ぐらいの、そういう人が多いんですよ。 これじゃ広がらない。 知らない人が知っていくっていう風な場にはなれない。 ダメでしょこれはと思って。 私がお店やるんだったら、まず知らない人に入ってもらいたい、押し付けは絶対ダメ。」
とは言え、日本人がブルースの店をやる事には葛藤もあった。とくに開店当初、外国人や黒人客が多く来た時期には、厳しい言葉を投げかけられた事もあったという。
「『日本人にブルースなんて分かる訳がない』って言われた事もあって…。そういう意味ではブルースって、昔の奴隷制や人種差別っていう文化的な背景を抜きには、歴史を語れない音楽なので、ある意味難解なものを店の柱にしたのかも…っていう葛藤は正直抱えてます。」
この話は、ほうぼう屋のブルースが単なる雰囲気づくりではないことを示している。ブルースを愛し、尊敬しながら、それを日本の西荻の地下でどう扱うのか。そこには、簡単には解けない問いも残る。すーさんの店は、その問いを完全に解決した場所ではなく、むしろその問いを抱えながら続いてきた場所なのだろう。

つながる店、距離をとる店
ほうぼう屋は、お客同士がつながる店でもある。開店当初から、ここに行けば誰かいる、何度か通えば顔見知りができる、という空気があったという。すーさんは、一人ひとりのお客を見ながら、合いそうな人を隣に座らせたり、逆に離したりもするそう。
「でも、昔と比べてだいぶ変わりましたね。 やっぱり、とにかくつながるんですよ、この店は。 昔は、行けば誰かいるだろうみたいな。 最初は知らない同士ですよ。 もちろん最初は一見さんですよね。そのうち何度か通ううちに、『あ、どうも。』なんて。『この間も来てましたよね。』みたいな、自然にそれが始まるわけですよ。…でも実は、『もしかしてこの人とこの人を隣会わせたら凄く話が盛り上がるんじゃないかな』って事が、普段それぞれのお客さんと話している店側の人間には分かっているので、あえて『ここ座って座って』とか隣り同士にさせて自然につながるような空気は作ったりしてるんですよね。…やってないふりして操作してるんですよ、実は。 お店の人間は。」
この「やってないふりして操作する」という言葉は、ほうぼう屋のホスピタリティをよく表している。人をつなげることは、ただ自由に任せることではない。誰と誰が話せば盛り上がるのか、誰と誰を近づけるとぶつかるのか。それを見ながら、自然に場を整える。
しかし、その空気も三十三年の間に変わってきた。とくにコロナ禍は大きかった。会話や接触が制限され、酒を飲む人も、遅くまで飲み歩く人も減った。店の営業も、夜だけでなくランチに比重を移すようになった。
「やっぱりね、なんだろうな、コロナを機にかな。お客さんたちの考え方というか、生活がそもそも変わっちゃった。 あの時、人と接されなかったじゃないですか。 会話できなかったじゃないですか。…じゃあコロナ明けてどうかっていうと、戻ってないんですよね。 やっぱり前のように、あのようには。そもそもお客さんが来なくなった、前のように。お酒を飲む人が減った。 遅くまで飲む人が減った。 行ったとしても一件目で終わる。…今十時までの店にして、コロナで始めたランチもまだ続けてる。」
客も変わった。開店当初からの常連は高齢になり、酒を飲めなくなった人もいれば、遠くに移った人、亡くなった人もいる。
「変わってますよ。 三十三年の間に。 本当に変わりました。オープンした頃って、やっぱり私と同じぐらいの年齢の上下十個ぐらいの人が多いわけじゃないですか。ところが私ぐらいの歳になると、もうみんな今、体壊した、酒飲めなくなった、もう仕事引退した、もしくは死んじゃったという方もいて。そういう私自身だって、一昨年の暮れに大腸がんだったことが分かって、入院して手術したんですよ。転移はしてなかったんですけど、今も経過観察中なんです。」
一方で、いまのほうぼう屋には、ランチに小さな子ども連れの家族が来ることもある。地下で、中が見えず、ブルースの店というだけで少し怪しげに見えるかもしれない場所に、ベビーチェアが用意されている。この変化もまた、店が長く続いてきたからこそ生まれたものである。
「この頃ね、ランチにちっちゃいお子様連れのご家族とかが結構来てくれて。ベビーチェアも用意してあるんですよ。地下だし、中見えないし、ブルースとか言ってるし、胡散臭い店なんじゃないか、みたいに思われる事も多かったんですけど(笑)。あと条例で禁煙にしたって事もある。4歳の女の子なんか『わたし大きくなったらここでバイトする〜!』て言ってて(笑)昔はもう煙モクモクで酔っ払いがいっぱいみたいな感じの店だったんですけどね。」
お客さんの半分以上は常連であるが、すーさんにとっては、二回目に来ればもう常連である。西荻以外からわざわざ来る人も多い。
「うちはもう西荻じゃないところからわざわざ来る人も多い。最近は海外の方も凄く多いです。ここなんて路面店でもないし、たまたま通り過ぎたから入るって店じゃないじゃないですか。本当に行こうと思って行くところじゃないですか。…地下だし、中見えないし、一回目は勇気がいるって言われるし。どんだけ勇気いるの?っていうほど。ここの階段。(笑)」
女性の一人客も多い。そこから出会いが生まれ、結婚した人も少なくないという。ほうぼう屋は、恋愛や結婚を売りにする店ではない。しかし、長い時間の中で、そうした人間関係も自然に生まれてきた。
「めっちゃ多いです。女性一人。それでここで出会った人と結婚したって人も多いんですよ。何ででしょうね。それも適当に遊びで付き合うわけじゃなくて、ちゃんと皆さん真面目に付き合って、ご結婚して、その子供が今来てくれててとか、そのパターンが多いです。」
ただし、客と近くなりすぎることの難しさも、すーさんはよく知っている。親しくなることはよいことばかりではない。公共の場であること、店であること、客と店側の人間の間には一定の距離が必要であること。長く店を続ける中で、彼女はそれも学んできた。
「でもお客さんと仲良くなるのもちょっと、それも考えもので、いろいろ問題もありましたよ。あんまり仲良くなりすぎると、人って当たり前だと思っちゃうから、それが。…親しき仲にも礼儀ありで、やっぱりやっていいこと、悪いことというのがあるわけですよ。 ましてや公共の場だから、ここは自分の家じゃないし、お友達のうちに行ってるわけでもないんだから。だからやっぱりお客さんとの距離感って大事ですね、どんなに親しくなっても。」

たまたま西荻に来て、愛着が湧いた
すーさんは、西荻に住みたくて西荻に来たわけではない。ここで店をやりたくて場所を選んだわけでもない。人との縁、店との縁、物件との縁が重なり、気づけば西荻で長く店を続けていた。
「西荻のこと。 私ほら、どうしても西荻に住みたくて西荻に来たっていう口じゃなかったわけじゃないですか。…特に西荻に愛があって来たわけではないわけですよ。ここでお店をやりたくて作ったわけでもないわけですよ。 たまたまなんですよ。 だけど、やっぱり長いこと住むと愛着が湧くじゃないですか。」
この「たまたま」という言葉は、すーさんの人生の語りによく合っている。岩手から東京へ、阿佐ヶ谷のアパートへ、ブルースへ、インドへ、西荻の地下へ。ひとつひとつは計画通りではなかったかもしれない。しかし、その場その場で生き延び、働き、歌い、料理を作り、人と関わる中で、ほうぼう屋という場所ができていった。
最後に、店を経営する上で何を大事にしているのかを聞くと、すーさんの答えはとてもシンプルだった。
「ちょっとでも温かい気持ちになって帰ってくれたらいいなって事です。だって皆さん働いたり学校行ったり世の中で色々生活する中で、良い事もあると思うけど大変な思いをする事だっていっぱいあるわけじゃないですか。上司にこんな事言われたとか、彼氏と喧嘩したとか。でもここに来てご飯を食べるでもいいし、お酒を飲んで帰るでもいいし、誰か友達が出来たでもいいんだけど、なんかちょっとでも温かい気持ちになって帰ってくれたらいいなって思うんですよ。ブルーな気持ちが少しでも晴れたらいいなって。それだけです。だからワーワー話しかける時もあるし、『あ、今日は何か嫌な事があったんだな』って感じる時はあえてほっといたりもするし。別に何でも喋ればいいってもんでもないですしね。それは何となく様子を見ながら察してやらせてもらってます。」
ほうぼう屋のブルースは、単なるBGMではない。「ほうぼう屋」という店名にも、すーさんが惹かれてきたブルースの世界が息づいている。19世紀末のアメリカでは、仕事を求めて各地を移動する人々が「Hobo(ホーボー)」と呼ばれ、ブルースの歌詞にもたびたび登場した。すーさんによれば、「そんな先人の生き様に惹かれ、またその言葉の響きが好きでした」という。そして、ブルースの背景にある「Hobo」に、「方々の人の協力でこの店が出来た事」
「方々からいろんな人に来てほしい」という感謝や願いも重ね、33年前、この店を「ほうぼう屋」と名付けた。
誰かが階段を降りてきて、食べ、飲み、少し話す。あるいは静かに座っている。そして帰るときには、来たときよりもほんの少しだけ温かい気持ちになっている。そのために、すーさんは毎日店を開け、料理をつくり、飲み物を用意し、人と人との距離を見守っている。かつて、すーさんが阿佐ヶ谷の古いアパートで聴いたブルースは、いまも別の形で、西荻の地下に流れている。(ファーラー・ジェームス、下岡凪子、8月8日2026年)


