西荻のサードプレイスとしての富山郷土料理店
- James Farrer
- 2025年12月24日
- 読了時間: 19分
更新日:2025年12月25日

個人経営の居酒屋で賑わう街、西荻窪ではそれぞれのお店が独自のサービスや料理、そして常連客によるコミュニティで客を惹き続けている。物価も上昇し、顧客層も限られる中、価格と量で勝負することは必ずしも最善の選択肢とは言い難い。だからこそ、何か特別なものを提供することが必要とされているのだ。西荻で生まれた戦略の一つは、都内ではあまり見かけないような、洗練された地方の郷土料理を提供することである。我々はこれまで、「ゆきとら」(現在は閉店)といった、福井県の料理を専門としていた店を取材するだけでなく、特定の地域の食材に特化した店、例えば伊豆諸島の神津島産の魚を専門とする居酒屋「扇子」や、富山の食材をイタリアンで提供する「Trattoria Dara」などにインタビューをしてきた。
今回は料理と食材、その両方に特化している店の代表格である居酒屋「KANTOYAMA」に向かった。西荻窪から南へ300メートルに位置するこの店は、富山県の郷土料理と食材を専門としている。
富山を中心とした北陸の海の幸と、選び抜かれた稀少な地酒を提供するこの店の舵を取るのは、店主の西田寛さん だ。(店では客から親しみを込めて「かんさん」と呼ばれる。)彼の富山の食文化への献身と、カウンター越しに見せる丁寧な仕事ぶりは、一見すると、地方から上京してきた料理人の典型的なキャリアを思わせるかもしれない。しかし、彼が歩んできた道のりは、かつての日本で一般的だった、昔ながらのレストランでの修行や地方から都市への移住といったパターンとは全く異なる。
むしろ、彼の料理人としてのキャリアは、意外にも東京の企業でコンサルタントとして食に携わる仕事、つまり厨房の外から始まったのだ。そこから、彼の道は劇的な転換を迎える。会社が大きな挫折と倒産を経験したことをきっかけに、彼は包丁を握ることを考え始めた。彼の料理の礎は、富山での一年半にわたる濃密な修行の中で、師匠や地元の漁師たちとの出会いを通じて築かれた。
なぜ彼は、安定したキャリアから料理の世界へ飛び込んだのか。コンサルタントとしての経験は、彼の料理にどのような深みを与えているのか。そして、店の名前に込められた「富山」の先にある、もう一つの情熱とは何だろうか。

コンサルタント、倒産、そして再生の決意
我々は、最も気になっていた、かんさんの出身地から伺った。
「いえ、富山ではなく、東京です。元々、大阪で生まれて、親の転勤で小学校4年生の時に東京に引っ越してきました。そこからずっと東京です。」
彼の料理の核である「富山」は、生まれ故郷ではなく、彼の人生を大きく変えた運命の場所なのだ。そんな彼が料理人になるまでの道のりとは、一体どのようなものだったのだろうか。
「きっかけは、元々、私が東京で居酒屋のコンサルティングのようなものをやっていたことです。」
彼のキャリアのスタートは、料理人ではなく、飲食店の経営を裏から支えるコンサルタントだった。
「数字や教育、どちらかというと料理よりも数字の改善がメインでした。食材のコストを落としたり、人件費を削ったり、FL(Food & Labor)の調整をしたり、新しい商品を開発したりといったことを6〜7年ぐらいやっていました。元々入っていた今でいうベンチャー企業のような企業だったのですが、買収されて。そのまま吸収合併のような形で、24店舗ある居酒屋でコンサルトして働いていました。そこでFL改善や商品開発、教育などをやっていましたが、その会社が倒産したんですよ。ちょうど2000何年だったかな?震災があった時ですね。そう、あの震災で、計画停電とかになった時に、居酒屋が傾いて、その波に飲まれて会社が倒産してしまいました。倒産したのをきっかけに、いろんなところから声をかけてもらい、ちゃんとした料理を勉強しようかなと思って、そこから料理をやり始めた、という感じですね。だから、ちゃんと料理を覚えたのは結構遅いです。」

会社を失い、すべてがリセットされた場所からの再出発。それは、彼が初めて「料理」そのものと真摯に向き合うことの始まりでもあった。会社の倒産後、約1年間は友人の店でアルバイトをしながら過ごしたが、とあるきっかけで富山に行く機会があったという。
富山での滞在期間は、わずか一年半。しかし、この時間が彼の料理人人生において、最も重要で濃密な期間となった。彼が門を叩いたのは、魚津市にある「海風亭」。100年近い歴史を誇る、老舗の日本料理店だ。
「教えてもらった師匠が4代目なので、すごい歴史があるんです。多分、一番料理を学んだのはここですね。」
居酒屋で働いていたものの、あくまでもコンサルタントとしての立場だったかんさん。しかし、キッチンに立つことにはあまり違和感はなかったそうだ。
「やっていることは、やっぱり一緒なんですよ、基本的には。仕込みが7割。朝早く来て仕込みをやって、あとは営業中は、私はその時教えてもらった時は裏方だったので、洗い物をやったりとか、料理を盛り付けして。店長が見に来て、『あ、じゃあこれこういうふうに』みたいな感じだったので、あんまり前に出ることは、富山ではなかったですね。ひたすら何か下ごしらえが多かったな。」
会社の倒産後、約1年間は友人が経営している居酒屋でアルバイトをしていたかんさん。その時の経験と富山の老舗日本料理店では、食材への向き合い方、特に「出汁」のような基本の部分に違いがあったという。
「やっぱりなんとなく、居酒屋とちゃんとした料理って違うところは、やっぱり食材の扱い方とかが、ちょっと違ったかな、というのは結構ありました。だしとかも、私も昆布とかで取っていますけど、居酒屋とかだと、だしパックみたいなのも出ているんですよね。どちらかというと、だしパックの方がやっぱり安いんですね。コストも下げられるから、みんなそれを使います、やっぱり。でも、やっぱり風味が違いますね。」
本物の味を知ることで、彼の内なる探求心に火がついた。
「何かそういうのもあって、そこからどんどん料理が楽しくなってきて、いろいろ自分で研究とかもして、いろんなもの食べに行って。そこからなんとなくこのスタイル(KANTOYAMA)に落ち着いたかな、っていう。」

彼の学びの場は、厨房の中だけではなかった。師匠からの教えに加え、もう一つの偉大な師がいた。それは、富山の海と共に生きる「漁師」たちだった。
「漁師さんとも知り合って、富山の魚はちょっと変わっていて、変な魚が多いんですよ。」
彼の口から語られる富山の魚は、東京ではなかなかお目にかかれないものばかりだ。
「白えびとかもそうですし、あと、うちでやるのは黒造り。締めものが多いですよね、酢締めとか。少し前までだったら、ウマヅラハギとか。多分、東京であまり聞かないですよね。赤ガレイとかは、そう、あんまり、こちら(東京)じゃ獲れないですね。」
これらの個性豊かな魚たちとの出会いは、彼の料理の世界を大きく広げた。そして、この貴重な食材を最高の鮮度で客に届けるため、彼は独自の仕入れルートを切り拓く。
「魚って、富山で獲れた良いものは一度豊洲に来て、豊洲の仲卸さんが小売に売るんですけど、私の場合はそれがなくて、直接なので。富山県魚津から直接。」
直接仕入れているのは、魚だけではない。
「あとは、日本酒もそうですね。日本酒も向こうで知り合った人たちから、今は3社から仕入れていて、石川県と、富山市、魚津市、この3つから色々使い分けて使っていますね。向こうで友達になった人たちが、いろんなお店に連れて行ってくれて、そこの店主さんと話して、いろんなところを紹介してもらって。その中で良いところを見つけて、紹介してもらって。多分、そこも十数年の付き合いですね。」
この、市場を通さないダイレクトな繋がりこそが、「KANTOYAMA」の味の生命線となっている。師匠や漁師、仲卸との十数年にわたる信頼関係が、今日も彼の店に最高の食材を届けている。

KANTOYAMAの流儀 —「居酒屋以上、割烹未満」の哲学
富山での濃密な一年半を経て、彼は再び東京へと戻る。そして、板橋にある富山料理の店で、雇われ店長として4年間腕を振るった。
「完全に、富山料理をやっていました。」
メニュー開発も任され、富山料理の神髄を東京の客に伝える日々。仕入れ先は無論、かんさんが富山にいた時代の知り合いから直接送っていてもらっていたそうだ。しかし提供していた富山料理は、現在KANTOYAMAで提供している料理とは違い、かんさん曰く「オーソドックスな」ものだったという。
「やはり黒造りとか、ホタルイカの沖漬けとか、富山で有名な白えびとか。みんなが知っている、富山っぽいものですね。イメージ的に、富山料理と思っているもの。今こういうふうに(KANTOYAMAで)出している、赤ガレイとかは出してませんでした。」
しかし、その店もコロナ禍の荒波に飲まれ、閉店を余儀なくされてしまう。
「そこ(板橋)も潰れたというか、そこはコロナの影響で。もうやめざるを得ないみたいな状況になってしまったので、従業員も何人もいたんで、それで結局やめるってなって。コロナはすごい、すごかったですね、影響が。いきなりお客さんがいなくなってしまって。助成金が出るからどうのこうのって話にもなっていましたが、結局だめでした。別にやってもよかったんですけど、オーナーは別に、「やれば」みたいな感じでは言っていたんですけど、私の家がちょっと、少し遠いんですよ、板橋。自転車で通っていたので。それもなんとなく、「もう疲れたな、まあ4年もやったし、まあいいだろう」と思って。」

次なる舞台として選んだのは、12年間住み続けた街、西荻窪だった。そして、ついに自身の店「KANTOYAMA」をオープンさせる。彼が掲げる店のコンセプトは、実に彼らしいユニークなものだ。
「まあでも、ちゃんとした料理よりかは、ちょっと崩した感じ。私の中で言うと、『居酒屋以上、割烹未満』ぐらいの。」
高級割烹の堅苦しさはなく、しかし居酒屋の気軽さの中にも、確かな仕事とこだわりが隅々まで行き届いている。その絶妙なバランス感覚こそが、彼の料理の真骨頂だ。この独創的な料理は、一体どのようにして生まれるのか。その秘密の一端は、彼の異色の経歴にある。
「(コンサル時代の開発経験は)かなりあると思います。色々な食材に触れてきましたし、その開発に携わっていたという経験もあるので、なんとなく『これとこれを合わせたらこうなるな』というようなことは、感覚的に分かりますね。ある程度今までの経験から一定のベースがあって、そこに何かを加えていくか、あるいは減らすかといった感じです。ですから、あまり……あまり深く考えたことがありません。なんとなく、ベースがあって、そのレシピがあって、そのレシピとその日に仕入れた野菜や魚を見て、『ああ、今日はこうした方が良いかな』というように、感覚的な部分が大きいかもしれません。」
例えば彼のオリジナルメニュー「カンパチのレアかつ」も、まさにその感覚から生まれた一皿だ。また、魚介だけでなく肉料理にもその手腕は発揮される。
「富山は、お肉料理ありますけど、ちょっと高いんですよ。だから、私は、肉は使っていますけど、富山じゃないのを使っています。最初は肉とかも使っていなかったんですけど、結局、肉を食べたいお客さんが多くて。(笑)」
「肉も、何か富山っぽく、和牛を昆布締めにしているんですよ。和牛を昆布締めにして、ちょっと昆布のうまみ載せて、それで、富山の醤油でちょっと炙って出す、みたいな。」

魚料理の技法を肉に応用する。こうした柔軟な発想は、彼の幅広い経験の賜物だ。
また「KANTOYAMA」のメニューは、常に変化し続ける。
「大きく変わるのは、2ヶ月に1回です。そして、基本的には仕入れる魚が変わってくるので、メニューは毎日刷り直しています。今週あたりだと、もう仕入れる魚が決まっていて、ハモが今週入ってきますので、それでハモの料理が2、3品増えるかな、といった感じです。」
「何か新しいことにも挑戦してみようかな、と思うこともあります。毎年なんとなく違うものを、と思いますし、同じものばかりやっていても面白くないですからね。お客様も、来てくださるお客様が楽しめるように、工夫をしないといけません。お客様を飽きさせてはだめだ、というのがありますので。ずっと同じものを出しているな、と思われてしまうと、『じゃあ別にここでなくてもいい』となってしまうと、あまり良くないですからね。」
常に客を飽きさせないための探求心は、インターネットや書籍からも貪欲に吸収する。
「もちろん、全然使いますよ。私自身、本もたくさん読みますから。色々な本を結構買います。それで何かを見て、『ああ、こういうやり方もあるんだな』というように、料理については日々勉強しています。」
一方で、客がいつでも帰ってこられるように、変わらない定番メニューも大切にしている。
「うちの名物はカンパチのレアかつ、あとは季節の白和え、そして炊き込みご飯は、必ずありますカンパチも季節によって、カンパチではなくなったり、ブリになったりします。定番といえば定番ですね。」
白和えは、少し前までイチゴを使い、今はオレンジを使うなど、季節ごとに変化を持たせる。この「変化」と「不変」の巧みな両立が、常連客の心を掴んで離さないのだ。

食材へのこだわりを支える二つの柱
料理の心臓部ともいえる「食材」。彼のこだわりは、日々の野菜選びから、長年の信頼関係で築かれた魚の仕入れにまで貫かれている。
「野菜は小高商店と地産マルシェに買いに行っています。地産マルシェは季節ごとに色々変わってくれて、朝採れの、良い野菜とかありますよね。小高商店さんは、注文もできるんですよ、野菜を。「こういうものが欲しい」とお願いしておくと、取り寄せてくれるんです、野菜を。」
彼の食材探しの旅は、近隣の店だけに留まらない。
「あと私は山に登るので、山に登って下りてきたところにある、地場の野菜を買って帰ったりしています。私の妻が南アルプス市の出身でして。それで、そちらの方へ行った時には、道の駅に、たくさん、かなり良い野菜が売られているので、そこでよく買って来ることが多いですね。」

野菜を取り寄せる際、彼が最も大切にしていることは、「自らが足を運び、野菜を目で見る」ことだという。
「私は絶対に自分の目で野菜を見ないと駄目なので。野菜って良いものと悪いものの差が非常に大きかったりして。自分で野菜を見ないと、質の悪いものが納品されても困りますし。やはり、少し手間ですが、時間はかかりますが、自分の足で運んで見た方が良いかな、と思います。」
野菜選びで自らの目を信じる一方、魚の仕入れでは長年の信頼関係が品質を保証している。
「万が一、質の良くない魚が届いた場合は、すぐに電話しますよ。でも、もう付き合いがとても長いので、めったにないですけどね。でも、仲が良いので、電話しても『ごめん』と言って、次に頼んでいない魚が少し入っていたりします。お詫びに。(笑)もう10何年の関係が続いているので。」
「自分の目で確かめる」という徹底した姿勢と、「長年の信頼関係を築く」という二つの柱。これがかんさんの食材へのこだわりを成り立たせているのだ。

人と縁が育んだ西荻窪という舞台
20代後半から西荻窪での生活を始めたかんさん。
「元々高円寺に住んでいたんですけど、引っ越そうか、みたいな感じで。たまたま物件が西荻に見つかって、西荻に引っ越してきた、という感じですね。」
彼が西荻窪という街を仕事場に選んだのは、単に住んでいるからという理由だけではない。
「他の店と違って、チェーン店が少ないんですね、西荻窪。変わった街だなあと思って。何か。いろんな店行きましたけど、何か個性が強い。すごい、面白い街。」
この街の持つ独特の空気が、彼の感性と共鳴したのだ。
そして、コロナが明けた2022年から、西荻窪で「間借り」営業を経験する。そして、現在の物件との運命的な出会いを果たす。
「2023年の11月に、ここの前のオーナーと私、飲み友達で。で、70ぐらいの方なんですよ、もう。引退する、という話を聞いたから。『じゃあ、ここでやりたい』から、『譲ってほしい』という話になったのが2023年の11月で、2024年の3月に着工入って、4月3日オープンでした。」
オープン当初から店を支えてくれたのは、コロナ禍の苦しい時期に出会った客たちだった。本格的な営業ができない中、彼は西荻窪の小さなチャレンジ店舗で、テイクアウトの弁当を販売していた。
「お弁当ですね、富山の。西京漬けとか、そういうのを、魚を中心に。ここ(KANTOYAMA)の半分のないぐらいの店だったんですよ。面積が。すっごいちっちゃいお店で、コンロも家庭用のコンロ家庭用で。だから、作れる物も限られるし、スペースも限られるし、みたいな感じで、最初大変だったんですけど。でも、ありがたいことに、40個とか売れていたので。」

この弁当が評判を呼び、彼の味のファンが少しずつ増えていった。その時の客が、今も店の根幹を支えている。
「今も、前からやっていたお客さんとかが7割方。来てくれているお客さんが、新規のお客さん、ここでオープンして3割ぐらいですかね。」
店の常連客は、30代後半から上の世代が中心。西荻窪やその周辺に居を構える、食への意識が高い大人たちだ。
「日本酒に博識な方も多いです。」
彼らとのカウンターでの会話は、この店ならではの楽しみの一つだ。話題の中心は、やはり「西荻」の話だという。
「多いです、とても多いです。どこのお店へ行って、どこのお店へ行ったとか、あそこが美味しいよとか、そういった話も出ますし。あと、本当に昔からずっと西荻に住んでいるお客様などもいらっしゃって、結構その、戦後すぐの話などを聞くんです、西荻窪の街の。『そんな街だったんだ』というくらい。ええ、面白いです。」
彼が語る西荻の住民像は、非常に興味深い。
「何か、西荻の人たちは、西荻への愛が強すぎて。少し怖いくらいです。まあ、変な話、私もそうですけど、西荻に戻ってくると、すごく安心するんですよ。ですから、他で飲もうかな、と思っても、まあ、吉祥寺で飲んで、もう一軒行こうとなると、絶対に西荻に戻ってきます、みんな。」

常連のお客さんとの繋がりは仕事時間外にも及ぶ。
「お客様に誘われて、『イベントをやっているので来ませんか』という場合には行ったりします。行って、でも結局、私は仕込みなどがあるので、少しだけ料理を作って差し入れを持って行って、2、3杯飲んで帰ってくる、というような感じです。今年も善福寺公園で花見をやっていて、声をかけてもらったので、ちらし寿司だけ持って行ったり。」
「たまに、お客様から「どこどこで飲んでいるから、もし時間があるならどう?」というように声をかけてもらって、一緒に飲みに行ったりもします。これは、仕事の後ですね。まあ、大体バーですね、そういう時は。11時半とか12時くらいに、私が仕事を終えて、「今ここで飲んでいるんだけど」と連絡が来て、「じゃあ、ちょっと顔を出します」というような感じです。」
この街に深く根を張り、住民たちとの温かい関係性を築きながら、「KANTOYAMA」は西荻窪に不可欠な一軒へと成長している。
また、コンサルタントとして、居酒屋の経営を支えてきたかんさんが考える、経営の難しさについて伺った。
「一番難しいのは、お客様の入りが読めないことですね。週末はとても忙しいですが、平日は全然暇だったりするので。そして鮮魚を使っているので、結局だめになってしまうのです。ですから、賄いはずっと魚、全部魚です。」

料理人の素顔 日本酒と山、二つの魂
かんさんの情熱は、料理だけに留まらない。彼の人生を豊かに彩る二つの要素が、店の隅々にまで魂を吹き込んでいる。それが「日本酒」と「山」だ。
彼は自他共に認める日本酒好き 。その愛情は、店の圧巻のラインナップに表れている。特に象徴的なのが、富山の稀少酒「勝駒」だ。
「私が使っている日本酒が、本当にちょっとね、東京でも飲めないのが結構多くて。珍しい日本酒で言うと、勝駒。これは富山でも飲めないんで。勝駒は作り手5人しかいなくて、生産量がすごく少ないんですね。それなのに、めちゃめちゃ美味しいんですよ。丹精込めて作っている感が、なんて言うんですかね、もう、すっと入ってくる水みたいな。でも、お米の風味も感じるし、みたいな。富山に働いていた時に、紹介してもらった、小売の店主さんから仕入れています。」
希少なお酒を仕入れるツテは、富山で築いた人との繋がりに留まらない。
「常連さんから紹介してもらったものもあります。例えば、これ。産土(うぶすな)って言うんですけど、これ、熊本のお酒なんですけど。そう、産に土って書いて、「うぶすな」って読みますね。これとかは、常連さんのツテで、仕入れてもらって、買ってもらって、とか。」
この一杯を求めて店を訪れる常連も少なくないという 。
しかし、彼は決して稀少性だけで酒を選ばない。客の要望があっても、安易に同じ酒を置き続けることはしないという。
「『これが美味しかったから、また入れてよ』と言われても、私は入れません。いや、美味しいのはそれだけではないんですよ、という意味合いです。」
常に新しい美味しさを提案したい。その想いから、日本酒のリストは1週間に1度という驚異的なペースで更新しているのだ。
「はい、大体1週間に1回は、必ず全部刷り直しています。ですから、皆様、何か新しいものを、とそれも楽しみに。大変ですけどね、新しい日本酒を探しに行くのは。」
最近、彼が特に情熱を注いでいるのが、若い世代が造る「クラフト酒」だ。お酒にフルーツの名前が書かれているなど、若者に親しみやすい印象があるお酒だ。
「『コンセプトワーカーズセレクション』って言われていて、日本酒をもっと若い子たちにも受け入れられるように、頭で考えるんじゃなくて、感性で飲みましょう。みたいな、日本酒のシリーズ。若い人たちが作っているんですよ。もっと日本酒を……でも、どちらかというと普通の日本酒よりも、このクラフト酒の方が飲みやすいので。なので、日本酒離れしている若い人たちには良いのではないかと思って。私、ここのシリーズ、しょっちゅう買うんです、あったら。でも、あんまり扱っているところ少ないんで。これは、私がおすすめして、気になっているお客様に声をかけると注文してくださいます。」
それは、日本酒の未来を見据えた、彼なりの応援なのだ。
そして、彼のもう一つの魂とも言えるのが「山登り」だ。
「月に1回か2回は登っています。妻と2人で登ったり、あとは1人で登ったりしています。」
それはハイキングのレベルではない。テント泊もこなす本格的な登山だ 。
「はい。テント泊もしますし、山小屋に泊まることもあります。面白いですよ、すごく良いです。」

この山への情熱こそが、店名「KANTOYAMA」に隠された、最後の秘密を解き明かす鍵となる。
「そうです、富山と『to YAMA(山へ)』をかけています。『to YAMA』で、山に行く、というのもかけて。」
自身の名前「かん」、料理のルーツ「富山」、そして人生の情熱「山へ」。三つの意味が、この名前に込められているのだ 。
彼にとって、山は単なる趣味ではない。料理人としての感性を磨く、大切な場所でもある。
「ずっと料理をしていると、自然に触れる機会がないので。自然に触れるだけで、だいぶ感性が磨かれます。インスピレーションも受けますし」 。
山好きなお客さんとも話が盛り上がるという。
「結構、山に登っているお客様は多いですよ、常連さんでも。ですから、山に持って行く用の日本酒を紹介したりします。」
そう言ってかんさんは我々に小さなボトルのようなものを見せてくれた。
「山の山頂で、湯煎にかけて、熱燗で飲むんです。あとは、『Hiker's GIN』というシロップのような容器に入っているのもあって。ジンは、普通瓶に入っていることが多いので重いじゃないですか。でもこれは軽いので。売っていますよ、これ。山用のジンと、山用の日本酒です。」
「ウイスキーを小さなボトルに入れて山に持っていく人も多いです。アルコール度数が高い方が、すぐ眠れるんです。ビールなどだと、何本も飲まないと。泊まりで登る時は、酔っぱらってすぐ寝てしまった方が良いんです、次の日の朝が早いので。だから、アルコール度数が高いものを持っていくんですね、やはり軽い容量で済むので。」
山と日本酒。かんさんを表すキーワードはこうも繋がっているのだ。将来、山用のアルコール飲料などもプロデュースしていそうですね、とお伝えすると彼は、さらにその先の夢を話してくれた。
「そうですね、やりたいです。でも今一番興味があるのは、ドライフードなんです。何か、山に持って行ける、少し美味しいドライフード。アルファ米などではなくて、それが和食でできたら面白いな、と思って。例えば、肉じゃがご飯とか。」
料理人として、そして登山家として、彼にしかできない新たな挑戦が、静かに形になり始めている。この登山食プランが実現するかはさておき、そこには、料理という仕事と個人的な興味が結びつき、人生をより豊かにしようとするかんさんの生き方が示されていた。(ファーラー・ジェームス、矢島咲来 12月23日2025年)


