上・仲通り商店街、戦後の歩みと変化

西荻窪の南口を出るとすぐの商店街。アーケードにピンクの象が吊るされていることで有名な仲通り商店街だ。かつて、駅の真向かいの角には果物屋があった。西荻の駅から電車に乗り誰かに会いに行く人、西荻の駅で降り家で待つ家族のもとへ帰る人、西荻の町に住む親しい友人会いに来た人、西荻の小路にあるお気に入りの誰かがいるお気に入りのバーを訪れる人、そんな人々がこれから会う人のためにこの果物屋で贈り物の果物を買っていた。この場所は今、携帯電話ショップだ。 社会の価値観は変化していく。そうした価値観を反映し、街も変わる。 昔、果物という手土産が一役担っていた人と人とのつながり、今は携帯電話が引き継いでいるのか。 そして、時代の変化とともにこの駅前商店街の他のスペースも変化していっている。

 

現在、西荻窪駅南口には再開発の噂がある。仲通り商店街は、この再開発の真っただ中にあるとも言われている。そして、青梅街道から始まる北銀座通りの道路拡張計画に引っかかる場所でもある。 

今回、我々は南口の再開発について、道路拡張計画について、仲通り商店街の地権者の方々にお話をうかがった。インタビューさせていただいたのは、仲通り商店街の入り口に果物屋を構えていた商店街会長の小林正敏さんと、1951年からピンク象のすぐ前に店舗を構える老舗ジーンズ店オークランドの店長、多田裕昭さんだ。

 

西荻窪駅ができたのは1922年(大正十一年)であるが、この時は北口のみ。南口は1938年(昭和十三年)に開設された。南口の商店街はこの後にでき、発展することになる。

 

最初に、小林さんにお話をうかがった。小林さんは仲通り商店街と西荻連合商店街の会長をなさっている。西荻連合商店街とは二十三の商店街が集まったものだ。前述のように、以前は商店街入り口で駅前に位置する場所に果物屋を開いていた。

「西荻仲通り商店街。駅前から突き当り(神明通りに突き当たるまで)まで。三十五、六軒なんですけど。わたしもう年齢も七十三なんですけど。もともと果物屋をやってたんです。四十年間。」

「昔はどこの駅前にも果物屋さんがあって。どこの駅降りても果物屋さんがあって、和菓子さんがあって、ケーキ屋さんがあってって。なぜかっていうとお土産にね。電車に乗るときには誰かんちに会いに行くっていうので電車に乗る人が多かったので、そういう時はお土産を持っていく。近所で駅のそばで果物を買っていく、ケーキを買っていく。で、こんにちはーって言ってお土産を渡す。お父さんたちが帰ってきたときに、子どもにお土産を、ただいまーっていって果物やケーキをお土産に持って帰ったり、自分の行きつけの飲み屋さんに行くときにちょっとかわいい女の子にちょっとプレゼントをって持っていくのに駅前にそういうお店があったの。今はもうそんな習慣がなくなりましたけど。」

 

「果物だけでなく途中から野菜も少し置いた。漬物とか野菜も。昔は果物とかは実家の田舎にミカンを送ろうとかリンゴを送ろうとかありましたから。今でもありますけどね。」

「だから市場に行ってて。昔は 神田の果物市場って行ってて、秋葉原に。そこに二十年くらい通って、それから今の太田市場に移って。神田市場が駐車場が狭いから太田市場に変わって。でも、太田市場ン中に野菜も果物もありますし、魚も肉もありますから、今いろんな業者が来ています。今でも時々行きます。自分が人にプレゼントしたりとか、家族でパーティーがあるとか、おいしい魚を量を必要だからとか、問屋さんに行って直に買う。私は二十何年も大田市場通いましたから顔知ってるの。みんな。どれがおいしいんだ?とかできますから。」

 

「うちの父親の代から。私が二十歳ぐらいの時から後次いで。私が上智大学に、私の兄貴が早稲田大学だったから、私も早稲田大学に行こうと思って早稲田大学に移ったの。大学に行ってから学校の先生になろうかなぁと思ってたんですけど、父親にあとを継いでくれって言われて。父親に言われたら嫌って言えない。」

 

その頃の商店街の様子をうかがう。

「お祭りでおみこしを担いだり、花火を上げたり、そういうのをするのが商店街で、わたしも小学生、中学生のころから山車を引いたり、おみこしを担いだり、あと、キャンディーをあげるから並んで、と。日本はそういう文化が伝統的にありましたから。区、行政がやるんじゃなくって地域の商店街がやる。その商店街が限られているのでなくテリトリーを広げてお客を取り込もうとする。」

 

商店街会員たちがコミュニケーションをとれる旅行やイベントもあった。

「コミュニケーションの場を作るために新年会があったり忘年会があったり。普段は忙しいから隣のお店の人と喋ったりする時間がない。サラリーマンと違って近所のお店の人と飲みに行くというのは…お店によって営業の時間帯が違ってましたから、だから新年会と、忘年会と、あと、商店街の総会ですね。一年に一回の株主総会のようなのがあって、そのときにみんなで旅行に行って、熱海ですとか伊豆に行って、一緒に温泉入って、一杯飲んでコミュニケーションするってことをやってたんですけどね。」

「でも今、会社ン中でもそういう忘年会とか新年会とかなくなって。今商店街でも忘年会新年会はやるんですけど、温泉行かなくなりました。地元で、コストかけないで、他のお店でやっちゃうんです。私が商店街会長やっていたときは、みんなで北海道行きました。その前は台湾に行かないか、とか言って。いろんなところに行って。それが楽しみでね。みんなで。普段活動に参加しない人も来て、二十人くらいで団体で賑やかでしたね。で、いろんな話をして、個人の話も、お互いに理解しあうという。」

 

柳小路の飲み屋街は商店街に参加していたのだろうか。

「飲み屋街は商店街に入ってるけど活動には参加しない。でも、おみこしぐらいは出す。今でも西荻の飲み屋街で女の子で担ぐおみこしがあります。で、女の子はそんなにいっぱいいないんだけど半分くらいはアルバイト集めて。で、商店街の名前で女の子が担ぐ。そうするとその商店街に女の子がいるんだと思って飲みに行こうと(笑)。」

「柳小路。昔、柳があったので。何本かしかなかったけど。一つの店が三坪くらいで。小さい中にぐーっと三十件くらいある。コーヒーが一杯五十円のころから。戦後、職人の人とかが仕事終わってから一杯。職人の人はだいたい五時に仕事終わる。五時とか六時に終わると近所の飲み屋に飲みに来るんですよ。大工さんとか業者。建築業者がすごく多いですから。割合が。世界で一番多いですよ。建築業者の仕事、道路工事をしたりいろんな工事をする。役所の依頼とかで。だから、お客さんを接待するとか誰か連れてとかじゃなくて、仕事の帰りに一杯飲みに行くっていう人が多い。接待するゆったり品のいい店はあんまりない。お客さん同士が気心知れてて顔知ってて、付き合って、飲み友達とかでも多いです。」

小林さんのよく飲みに行ったのかをうかがうと、

「お店やってたんで三十くらいまでお酒飲まなかった。で、朝市場に行くと朝五時半か六時に出ないといけない。競り(せり)が七時に始まっちゃう。そうすると毎日。七時に神田とか大田に行ってなくちゃいけない。そうすると六時に出ないといけないから飲んでいる暇がない。飲んでて赤い顔して歩いていたら馬鹿にされちゃう。トラブルになっちゃう。」

と笑いながら話してくれた。

 

戦後の仲通り商店街について、もう一人、商店街の一員に語っていただいた。仲通り商店街の老舗ジーンズショップオークランドの店主、多田裕昭さんだ。

オークランドは1951年から現在店舗がある場所で、多田さんのお父様が営業をスタートさせた。

「うちの父の時から。古着屋さんだったんです。アメリカから何キロで古着を、大きなのを買って。いろんなものが入ってるんですよ。スカートだとかコートだとか、男女一緒に。お針子さんも雇って、洗って、つぎはぎやったりして繕って。ここで売って。ものすごく景気良かった。別荘が千葉御宿と山形の蔵王に。うちの反対側に弟のアパートがあって。(お父様は)ものすごく成功した人。山の手線の大塚と荻窪とここと三件。山形の従妹たちが皆来てて全員手伝って。」

「その頃は戦争の後で着るのは何もない時代だったから、洗濯して縫製しなおしたのを日本全国にバザーって言って売り歩いたの。体育館みたいなところで。それが相当儲かったみたい。輸入する業者が何人かいて、その頃エドウィンの常見さんとかといっしょにやってて、衣料品のルートができたんだよね。安く買って、日本全国トラックで回って。オープンリールのスピーカーで『こちらは~』って。その頃はつるや貿易かアメリカ屋って言ってて、体育館でござを敷いて。そこでものすごく売れたって言ってた。着るものがまだあまりない時代でしたから。」

そう話しながら見せてくださった写真は昭和三十八年の千葉の別荘のもの。別荘の庭に当時の横綱柏戸が来て相撲をとっているものだった。

 

その頃は商店街も賑わっていた。

「昔は、駅前が果物屋、つくだ煮屋さん…有明屋さんっていうものすごく有名な老舗のつくだ煮屋さん。いつも並んでて。あとはお肉屋さん、(普通の商店街の店)そうそう。そうそう。外食はなかったからね。」

戦後の高度経済成長時代の元気だった商店街の様子が目に浮かぶ。商店街の会員たちは一致団結して、お客を呼び込むべく商店街を盛り上げていた。

 

そんな活気があった商店街も時代とともに変化していく。大きなスーパーができ、そこで生鮮食品から日用雑貨、薬も衣類も揃うようになると、商店街に軒を連ねていた小さな小売店は姿を消し始める。

再び小林さんの話。

「今個人で独立でお店出す人が減ってるんです。昔みたいに若い人が修行して独立してそれで自分の店を出す人はどんどん減ってるんです。」

 

小林さんの営む果物屋だった場所は現在貸店舗となり携帯電話ショップが入る。小林さんの代から今でもやっているお店は三軒のみ。

「文房具屋さんとか、あの、ジーパン屋さん(オークランド)とか、花屋さん。そのくらいしかなくなったかな。あとは全部貸してね。」

 

「西荻ばっかりじゃなくって、あとはどこも。商店街もスーパーとコンビニエンスができて便利になったもんですから、今は薬局もどんどんなくなっています。布団屋さんとか下駄屋さんとか靴屋さん、あとは八百屋さん魚屋さん肉屋さんとか、みんななくなっちゃった。昔は西友がこの先の角、パチンコ屋さんのところにあった。その頃西友は野菜とか果物扱ってなかったですから。で、こっちに移ったときに24時間年中無休になったんですから。」

それまでは自宅の近所の小さな店を回って買っていたものは、スーパーに行けばいつで全て手に入るようになったのだ。

 

西荻の名物とも言える朝市についてもお話してくださった。

「朝市はもう三十年くらい続いてる。こけしやの朝市も。でも、朝市も参加している人の半分は外の人。地元の人だとそろわないから。いわゆる参加費をとってする。」

朝市のこの状況も、地元の個人店が減ってきているのが原因だ。

 

個人店を凌駕する大型スーパー。そしてもう一つが大型資本のチェーン店。

「チェーン店の西荻店っていうのが増えてる。西荻はどちらかというと一店舗の店が小さい店が多いからあんまり大きなテナントは少ないです。五坪とか七坪、十坪くらいの店が多いですから、そこはチェーン店は入りませんから、やっぱり他の町より個人の店が多いです。」

とはいえ、西荻でも確実に増えているチェーン店。商店街とのかかわり方についてうかがった。

「チェーン店の人は商店街に入るんですけど、活動には参加しない。なんでかって言うと、チェーン店は正社員は一店舗一人。あとはパート社員だから活動なんかに出られないんですよね。でもわたしは商店街の会長しているときに契約するときに商店街に入ることを契約書に入れなさいって。あとで商店街の人が入ってくださいって言うとトラブルになるから、契約するときに商店街に入ることを条件に入れましょうって。契約書を作るときに。そうすると、あ、そういう契約になってるんだなーとわかるので。それ入れないと『いや、わたしはわかりません、知りません』ってなっちゃうんで。今は契約にないので、出店した時に商店街の人が勧誘しにというか、話に行きます。『商店街入ってくださいって』。決定権はテナントさんにあるから『余裕ありません』とか。『家族と、女房と二人でやってるからそういう活動は理解できても人を出したりできません』とかうまく断られるので。月の会費っていうのが四千円くらいなんですね。商店街費。みんなで集まってお金を有効に使うわけです。一つの店ではイベントをしようとしてもなかなかできないけど、商店街でイベントをしてお客さんを引っ張り込む、営業活動をするってことをして。」

「ひと月一回ずつくらい商店街で話し合いをして、いろんなイベントの事とか、商店街どうやって盛り上げるとか。どういうことをアピールしたいかの話し合いはしますけど。そういう活動に参加する人は少なくなってきましたよね。それはチェーン店で借りてる人が多いから、なかなか、会合が七時半とか八時から始めると飲食店の人は自分の店が忙しい時間に外せないという…かといってアルバイトの人に代わりに出てくれっていうのもそれは無理ですから。これから商店街がだんだん狭くなってくるんですけど」

 

店の向かいにファミリーマート、日高屋、ドトールコーヒーとチェーン店が並ぶオークランドの多田さんは、チェーン店の様子についてこう話してくれた。

「チェーン店は海外からの従業員、ベトナムとか中国だとか。人件費が安い。ファミリーマートは従業員はベトナム人。店長は中国人の王さん。王さんの日本語めちゃめちゃうまい!中国でも相当優秀な方なんじゃない?アクセントだとかなんだとかも。昔、マッサージとかマニュキュアつけてくれるところとかの店でたまに中国人のやり手の店長とかいたけど、やっぱり日本語も下手だし、やっぱり日本の商店街費をとるっていうのも…。説明して、ちゃんとわかっているんだろうけど、そんなの払いたくないから。アーケードの電気代とかなんだとかあるからって説明しても、『わかんない』って。王さんは初めから全部理解しているの。払うし、いろんな会計もっていっても、『あーご苦労様です』って。すごいよ。そうです。ファミリーマートの従業員です。直営店。いろんな日本の商業のやり方などを理解して。日高屋なんかもベトナムの人が調理して、店員はインド人。なかなかかなり相当教育されてますね。細かい注文とか。若干間違えたりすることもありますけど、でも、お客さんはみんな西荻の人だから大らかだし。店員が中国かベトナムかインドの人。中で作ってる人もベトナムかインドの人ですね。量なんかも前日本人がやっていた時よりも多い。多分自分たちの食べる量っていうのが日本人みたいに少なくないからね、きっと。チャーハンとか頼むと、え、大丈夫なのこれ?っていうくらい。逆にいい場合もある(笑)。ドトールコーヒーとか携帯電話の店は日本人じゃないとだめだけどね。」

しかし、多田さんはこうも付け加える。

「チェーン店も厳しいですよね。何軒も変わりました。家賃が高いんですよ。ものすごく。六十七万とか…。」

とのこと。ここは駅前の商店街。家賃がべらぼうに高いのだ。

西荻窪は、隣の吉祥寺や荻窪と違い駅ビルがなく、たくさんの個人店、小さな路地の長屋造りの建物が並ぶ飲食街など、昭和の町の風情が残っている。それが今見直され、外からは人気の町として注目されるようになってきた。そこにきて昨今の家賃の高沸。

そして、今、問題が起こり始めている。

 

後半では、西荻の駅前再開発についてと、地上げの問題についてのインタビューをご紹介したく思う。(ファーラー・ジェームス、木村史子、4月15日2020年)

 

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