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職人たちの夜の止まり木

西荻の飲み屋街は知識人、芸術家、あるいは若い女性のための止まり木としてよく知られている。一般的には職人達の飲み屋街とは思われていないようだ。しかし、西荻には、一見呑み助のための飲み屋に見えるが、職人、家族連れ、子どもたちのための水飲み場もあり、安価で心のこもった食べ物、飲みものにありつける家庭的な雰囲気の店もある。 そんな「隠された場所」の一つが「串の屋ちょろ」だ。食の情報にあふれた東京で、ここは「隠れ家」や、「深夜食堂」の具現化された場所としても捉えられているようだ。

 

西荻南口右手にある、焼き鳥の煙に満ちた、戎で有名な飲み屋街。その入り口近くにある小さな居酒屋が「串の屋ちょろ」である。ちょろのオーナーで料理人の平田等(ひたらひとし)さんがここに店を開いたのは、今から十五年前。

「もう直観だよ。駅から近い。でも、ほとんど直観。」

 

彼が十五年前に店を探していたとき、この近辺には他に店はあまりなかったと話してくれた。ビデオショップが一軒、ピンクサロンピーチ、台湾料理珍味亭と隣の蕎麦屋ぐらい。 戎もあったそうだが、現在ほど規模は大きくなかった。 他の場所の物件もたくさん見てきた等さんだったがこの店舗の案内を不動産会社から受とったとき、JR中央線で駅の近く、という条件からここに決めたそうだ。

 

等さんはもともと日本料理の料理人として飲食関係の会社に勤めていた。しかし、その会社の経営が思わしくなくなり、独立を決意。

「きっかけはね、前に勤めていた会社がぽしゃっちゃって、ほんで、やろかって。ほら、十五年だから、もう五十過ぎてたし。あの、またそれから務めるのも大変だし。」

 

店の名前「ちょろ」は、以前働いていた会社の社長が六本木に小料理屋を出すことにし、名前を佇鷺(ちょろ)にする予定だった。しかし、「佇鷺」という文字が「鷺が佇む→詐欺が佇む」で店としては縁起が悪いということで、結局小料理屋の名は宵山(よいやま)になった。その社長とはずっと一緒に仕事をしていたので、その名前の音をもらって「ちょろ」と名付けたそうだ。

 

等さんの料理人としての経歴は長い。

「もうずーっと。二十歳から。料理。ホテルとかいろんなところで。全国で。生まれたのは四国、愛媛。」

料理は等さんが作り、奥さまの麻美子さんが飲み物を作る。麻美子さんは、ちょろが開店するまでは専業主婦だったが、今は夫婦二人で店を切り盛りしている。

「料理の定義?居酒屋料理。代表的なもの?いや、別にないんだけど、たまーにっていうか、毎日変える。だってお客さんが同じ人が来るので。だいたい常連さん。八割くらい常連さん。だいたいそんなもんですよ。」

ちょうど居合わせた常連客カップルの男性が、

「来るたびにメニューが変わるんで、それが楽しみ。子どもの頃うちに帰って『ただいまー!お母さん!今日のごはん、なにー?!』っていう感じ。」

と、嬉しそうに飲みながら話してくれた。一緒にいた女性は下戸だそうだが、食べ物がおいしく、メニューも変わるので、飲めなくても一緒に来るのが楽しみだそうだ。

 

常連のお客はほとんど男性。ちょうど居合わせた男性は週三回ほどのペースで来店するとのこと。しかし、そんな男性客にまじって。子ども連れの女性客もいる。

「ああ、先日の子?桜太郎(おうたろう)ね。お客さん。あー、一歳半くらいからずっといるからー、俺たちはじいじとねえね(笑)みたいな。一歳半くらいからずーっといるから、本人も家みたいに。おむつしてたときから来てるから。」

「うちはやっぱり男が多い。女性は少ないけど多少はいるね。若い子がポツンと一人で入ってくるよね。入りづらいんだよ。最初ちょっと。アゥエィ感があるよね。常連客が多いから。」

「ああ、桜太郎とお母さん?最初から二人。親父が時間が遅いから。職人さんだから。パパが夜遅かったりとか朝早かったりとか、いないからここに来てるの。ここでお酒飲んでると、ちっさいのはうちのがめんどう見て。二階で遊んだり。二階は最初はやってたんだけど、運ぶの大変だし。階段が急だからね。酔っぱらうと危ないし。けっこう落っこちるのが(笑)。今は物置と、あの子がずーっと遊ぶんだけど。ああいうところ、子ども好きだから。今はもうあまり行かなくなったけど、三歳くらいのときは毎日行ってた。下手したら寝てたからね。遊び疲れてさ。もうね、来年小学生になるから、自分の意志が強くなって、あっちいったりこっちいったり。前はね、すぐ上に行ってた。四歳くらいまでは。」

 

等さんの話によると、開店当初は職人のお客が多かったそうだ。

「ほら、壁塗る人とか大工系。たまたまここに集まってたんだと思う。ペンキ塗る人とか。今、もう、その頃のお客さん、ほとんど来てない。今はもう、だから、職人さんみたいな人とサラリーマンと半々くらい。職人さんいるよ。ほら、桜太郎のパパとか。最初ん頃、オープンした頃はほとんど。ペンキ屋さんとか床つくる人とか。みんな仕事違うから。集まっちゃうんだよ。みんな顔見知りだから。ここらへんで知り合って、みんな知ってるの。」

 

常連客達とちょろのオーナーとの関係は深い。

「花見に行くって言ってもこの店のお客さんと行っちゃうから。忘年会でも全部この店のお客さんと。今、全部やめちゃったけどね。年とっちゃって。うちはずーっと新宿でやってたんだ。俺の知り合いの板さんの店。今そこやめちゃったから。だからこっちもやめちゃった。お客さんとは、けっこう飲んでましたよ。ここ二~三年やめちゃったけど。花見に行くとね、俺、ころんじゃうんだよね、酔っぱらって。花見は善福寺。去年は箱根。あ、俺、あんときも帰りこけたんじゃないのかな(笑)。昼間っから飲むと酔っぱらっちゃうんだよね。仕事んとき?あ、飲みますよ。ビールか焼酎。毎日まいにち。毎日ボトル一本ぐらい。いや、強くない。中毒(笑)。」

 

隠れ家的で常連客達のみが知るといった様子の「ちょろ」だが、実は多くの雑誌に取り上げられてきている。

「あれは…あの写真は雑誌社の人が。これはここ。それはね。あれ、その雑誌なんだっけな。あれは『散歩の達人』。この前『Pen』。ここはね、一番最初に大竹さんっていう人(大竹聡 )がホッピーマラソンっていうので。その人が本で対談とかすると、必ずここに来てくれるの。本の担当の人に、じゃあ『ちょろ』さんでやりましょう、って、本の担当の人に言っちゃうの。編集者と。」

大竹氏とはどういったつながりなのかうかがってみたところ、

「最初?大竹さんが直観で入ってきたの。」

だそうだ。等さんが店を決めたときと同じ「直観」。大竹氏に紹介された後、様々な雑誌で「ちょろ」は取り上げられていった。日本のメディアは、等さんのような職人気質のオーナーの居酒屋に惹かれるようだ。

 

開店当初のメニューは焼き鳥とおでんがメインだったが、増えるお客に対応して焼き鳥とおでんを作るにはあまりにも多くの作業が必要だった。

「串打つだけでも。焼き鳥十本、砂肝十本、レバー十本、って…。皮?超めんどくさいんだよ。おでんもめんどくさいんだよ。大根茹でたりさ、卵茹でて皮剥いて、やってられないって。こんにゃくとか豆腐だけだったらいいんだけどさ、大根茹でて卵茹でて皮剥いてってやってたらさ、それだけで。で、うちの店長(麻美子さん)は手伝ってくれなくなったし(笑)。」

「おでんと焼き鳥やってたのは三~四年じゃないの?おでんはおでんで、こういうお鍋で五人前くらい炊いて、やってたのはやってた。その頃はね、焼き鳥の肉は肉屋さんから肉とってたから、すじとかもつとかも全部。冬になると、すじの煮込みとか、もつの煮込みとか、やり始めたら、もう、おでんいらなくなっちゃって。そっちの方が時間はかかるけど簡単だから。おでんだとずーっとかけっぱなしだから。」

 

常連客の需要と店側の供給状況がぴったり合って今のメニュー構成になっていったようだ。では、日替わりのメニューはどのようにして決めているのだろうか。

「朝、目が覚めたら『あ、肉豆腐やろうかなー』とか。『今日は何か味噌で作って…。味噌、昨日作ったんだけど、茄子に塗ったくって』とか。仕入れ次第。仕入れは自分でその辺で。自分で仕入れて。そうそう。だからほら、時間かかっちゃうんだよ。自分で見て選んで。」

日々、直観で仕入れをし、直観で料理のメニューを決めているそうだ。直観を頼りにひょうひょうと店をやっているように話す等さん。だが彼の「直観」は長年培った深い料理人としての経験からの直観である。

 

営業時間は五時から十二時まで。深夜営業の許可取っていない。

「最初からもう十二時以降はやめるっていう。疲れちゃうから。でもけっこう二時くらいになりますよ。新しくは入れないけど、いる人が残っちゃうと。だってね、いつも十二時ちょっと前に来る人がいるの。働いている人で。帰ってきてここ寄って、一杯飲んでるとやっぱり十二時半か一時になっちゃうの。食べるか?みんなそんな食べないですよ。酒飲みばっか。」

 

平田さんご夫妻は、十五年間同じような様子で営業を続けていると語る。

「うちに帰ったら寝て、昼に起きて出て。店と家しか。どこもいったことないから。」

こう笑いながら話す等さん。しかし、彼はバブル崩壊後の日本経済の激しい浮き沈みを経験してきた。 そして、人生の後半であらためて厳しいビジネスに参入した。 彼が長年仕事で培ってきた経験と直観とで、ちょろは今日も豊かな顔ぶれのお客で賑わっている。子連れの職人家族、サラリーマン、書道家、先生、歌手…。 等さん自身はもちろん、麻美子さん、ちょろのお客達。彼らはまさに、今、街を走らせている人々なのである。(ファーラー、木村、11月、23日、2017年)

Hana Nishi-Ogikubo
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