シンガポールと西荻を繋げる店
ライーデン大学の食文化研究者カタジーナ・チフィエルトカ教授のよると、現代の日本料理は三つの足で立っている。和食、洋食と中華。 すべては20世紀初頭、日本の食習慣の近代化とグローバル化を代表するものだ。80年代からもう一本の新しい「足」が出てきたそうだ。確かにそう。「エスニック」料理だ。アメリカでは、エスニック料理とは移民が経営するレストランでよく使う言葉で、スパイシー、本格的、しかしも安いというイメージがある。(最近は、エスニック料理の安いというイメージを学者も批判している。)
日本では、エスニック料理のイメージがアメリカと少し違う。移民というより、日本人特有のオリエンタリズムとかかわっている。80年代から日本人の若者にもっとのんびりしたライフスタイルへの憧れが出てき、海外旅行が増え、これによって、特にアジアの料理、ビーチ、多彩な民族ファッションが日本にもたらされた。スパイシーなエスニック料理はその一つだ。アメリカと比べ、アジアからの移民は少ないが、日本人が経営するエスニックレストランは多い。
中央線沿線はエスニック料理店が多い。西荻のシンガポールチキンライスの店、夢飯もその一つである。店長であり、料理も手掛けるのは伊藤路以さんだ。今でもロックミュージシャンのように見える60代の路以さんの話は、アジアの味を提供するだけではなく、レストランが地元の食文化と密接につながっているという実態を教えてくれる。
路以さんは、夢飯をはじめる前、吉祥寺でバーをやっていたそうだ。ソウルミュージック、レゲエなど、ブラックミュージック中心のアナログのレコードをかけ、音楽を聴きながらお酒を楽しんでもらう店だ。しかし、バーという商売はきりがなく、ほどなくして店を閉めることにした。
「ひどいときは午前中、10時ぐらいまでみんな飲んでるから、あー、これはだめだ、疲れちゃうと思った。」
シンガポールチキンライスをはじめたきっかけは、バーの客の一人で日本のアーティストだった人からシンガポールチキンライスのことを聞いたことからだったそうだ。
「その人がシンガポールに行ったら必ずチキンライスを食べ、それがすごくおいしいと言っていた。へぇ、そうなんだ、と思って、東京中チキンライス屋さんを探した。17年ぐらい前。でもなかった。新橋にシンガポールレストランがあったけど、そこのチキンライスはスープで炊いてなかった。あ、これは違うと思って、自分で、本でレシピを見て作ったら、あ、こりゃおいしい!と思った。」
その頃のチキンライスと言えば、ケチャップライスに小間切れの鶏肉とグリンピースが入ったもの。普通の日本人だったらこちらを想像するだろう。それで路以さんは、これはおもしろいと思ったそうだ。
現在提供している料理のレシピは、路以さん自身が本場の料理を食べてみて、それを日本米と合わせて作ったものだそう。
「シンガポールに行って、チキンライスの老舗、マンダリンホテルやチャターボックスとかで食べて、う~ん、ま、おいしいけど、お米が違う。ジャスミンライス。これは日本米でやった方がおいしいんじゃないかと思った。うちでもまだジャスミンライスでやってるけど。でもこっちとしては、日本米がおいしいと思う。日本米の方が、スープがよく入る。時間が経てばたつほど、日本米がぼくは好き。好き嫌いは個人差があるけどね。」
月6回、5の倍数の日はジャスミンライスの日。初めて食べる人はジャスミンライスの方がいいこともあるからだそうだ。ジャスミンライスは香りがよく、現地ではこれ。なので、それも残しておいたほうがいいと思い、両方やっているそうだ。
夢飯は17年前、2000年3月21日にスタート。開店当時、少ない人数でやろうと思っていたそうだ。半分は貸ギャラリーで半分がレストラン。最初、客は「なんだろう?」という感じで来なかったそうだ。しかし、それは路以さんの狙いでもあった。シンガポールは英語圏。英語で言えばチキンライスだが、本来は海南鶏飯。ただ、それじゃおもしろくないと路以さんは思った。そこで「シンガポールチキンライス店」と銘打ったことで、逆に「なんだろう?」と、食に対するアンテナが鋭い人たちがまず反応したのだそうだ。
メニューは全てシンガポールと繋がっている。大根餅のオムレツも、シンガポールではキャロットケーキというそうだ。やりたいメニューはほかにもあるそうだが、チキンライスも仕込みが大変なので、そうたくさんはできないそうである。
夢飯の常連客の多くは地元住民。週間に二・三回も通う常連もいる。客は家族連れも多い。もちろん、お酒を飲む人もいるが、飲み屋のイメージではなく、食堂のイメージである。メニューには、「お子さま向け」もあるし、ベビー粥もある。赤ちゃんからお年寄りまで食べられる食堂で、家族で来られる店としてやっているそうだ。
路以さんの出身は吉祥寺。音楽バーをやろうと思ったのは、戦後、このあたりにアメリカ軍の居住地があったことが影響している。
「子どもの頃は、グリーンパークと言って中央公園のところにアメリカ軍のアパートメントがあった。アメリカンスクールも今の市役所のあたりにあり、ソフトボールとか、野球とか、ネイティブアメリカンのお祭りなどの交流があった。練馬の方はグランドハイツというアパートメントがあった。戦後、ぼくたちの子どもの頃は、アメリカに憧れてあこがれて、音楽好きだから。その頃耳にしたサムクックが大好きだった。それでサムクックをカバーしたりして過ごした。そして、独立しなきゃなと思って、吉祥寺でバーを始めた。」
路以さんは、子どものころから西荻を知っており、現在は西荻の食職人として働いている。彼から見た西荻の食文化はどうなのだろうか。
「やっぱり、イタリア系料理、スパニッシュ系料理は若い人相手。でも、昔から西荻は居酒屋さんでごはんを食べていた。食べるところがないから。家族で入って食べる。そんな文化が残っている。そういう寛容性がまだある。あの頃はレストランはあまりなかった。こけし屋はあったが。居酒屋はずっとあった。昔は定食屋さん。」
エスニック料理屋は特別なイメージがあるが、夢飯は地元の食文化に非常によく溶け込んでいる。
近所の商店街とのつながりもある。
「ここの商店街は仲がいい。お祭りだとか、いろいろ。ここの前で売ったりとかする。」
子どもも大人もお年寄りも、家族がちゃんとした食事ができ、それでいてお酒も楽しめる外食文化が残る町、西荻。この西荻で、夢飯はシンガポールライスという日本では特別な料理を、特別ではない日常の食堂文化として提供している店である。(ファーラー、木村, 9月2日2016年)