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美味しい蕎麦は高度で精緻な「ものづくり」の結果である

江戸時代に庶民を中心に日常の食べ物として広がった蕎麦。現代も、駅の立ち食い蕎麦やショッピングモール内の蕎麦屋などなど、我々庶民の食べ物である。蕎麦屋は大型店やチェーン店が増え、市場規模は広がってきているものの、(木下製粉株式会社調査より )個人経営の町の蕎麦屋が閉店したのを目にすることが増えた。出前の減少、家族経営の限界などが原因の一つだろう。そんななか、個人経営でかつ、短い営業時間にも関わらず、常に蕎麦好きでにぎわう店が西荻にある。「鞍馬」だ。西荻窪駅南口を出て、若者でにぎわう飲み屋がひしめく通りをまっすぐ南へ進む。神明通りと突き当たった右手に「鞍馬」の暖簾がかかった小さな入り口がある。

店主は吹田政己(すいた まさみ)さん。今年七十一歳となるバリバリの現役蕎麦職人である。

 

「生まれたのはここです。はい、西荻窪です。父がここで酒店を経営していました。」

吹田さんのお父様は青森から上京し、現在「鞍馬」がある場所で酒店を経営していた。(この建物の半分は吹田さんの弟が経営するダンテコーヒーである。したがって、鞍馬蕎麦のすぐ隣はダンテコーヒーだ。)

子どものときから家業の手伝いをしていたが、「メーカーが造った商品を仕入れて売る」だけの仕事がどうも自分にしっくりこなかったそうだ。

ものを作る仕事がしたい、そんな気持ちがあった。そして、1984年、

「蕎麦業界にいた友人から蕎麦がおもしろいよと言われて。」

三十六歳のときの転職だった。

根っからの料理職人肌だったのだろう。吹田さんは創業し、蕎麦打ち始めると、とことん食材にこだわった。

「うまい蕎麦を作るためにはいい蕎麦粉がいります。ですが、商売できるだけの量を安定的に手に入れることは難しい。」

悩み、試行錯誤しているときに、山梨県長坂町(現在の北杜市)で蕎麦店「翁(おきな)」を開業していた高橋邦弘氏 のことを知る。当時、高橋氏もまた、蕎麦の材料に悩んでいたそうだ。

「高橋さんはいろいろなところに行って皮を取ったソバの実の色や、味、香り、水分の量などを自分で確かめていたんです。長野県の池田町で自分で蕎麦を育てていたときもありましたが、量が少ないし、店をやりながらは難しいと思ったんで、ソバの実自体は買って自家製粉をしたんです。」

吹田さんはそんな高橋さんに惚れ込んで、毎週一回、自分の店の定休日には長坂の高橋さんの所へ通った。ものを作ることの楽しさをそのときに実感したそうだ。

 

創業当初の鞍馬の蕎麦は機械打ちだった。しかし、長坂通いで掴んだ「おいしい蕎麦へのこだわり」を実現するために、1986年「自家製粉臼挽き手打ち蕎麦」に転換する。1994年十一月には店舗の二階と店の一部に製粉所を増設する。我々がお話をうかがった店の一角には大きな臼挽きの機械が置かれていた。

二階の製粉所を案内していただいた。石抜き( ソバの実に混じった砂や小石を取り除く )、磨き( ソバの表面を磨いて、三角形に尖った部分を削って丸く、こびりついている泥や汚れを取り除く ) 、粒揃え( ソバの実の粒の大きさを揃える )、皮むき( ソバの実の甘皮をむく)、臼挽き( 粉にする )、振るい( 粉のきめを整える )、蕎麦打ちの全工程が店の中で行える。蕎麦はその日の分を打つ。

「お客さんにはいつでも作り立ての新鮮な蕎麦が味わってもらえます。」

蕎麦づくりの方向性を決定したともいえる長坂通いはその後も続けた。

現在は、若い従業員が二人、毎日蕎麦粉を作っている。毎日その日の分を打つのは今も変わらない。

 

うまい蕎麦を打つ環境は整備された。では、そもそもの味を決定するソバの実(玄ソバ)についてうかがった。

「いろんなソバを試して、茨城県の常陸秋ソバに出会って。風味が強くて食感がいい。」

吹田さんが茨城県の常陸秋ソバを使おうと決めた経緯には茨城県筑西市の専業農家との出会いがあった。その農家は「ソバは畑で味が決まる」という考え方で、有機栽培でソバをつくっていた。この農家と直接取引の契約を交わし、玄ソバを仕入れている。

 

鞍馬の名物蕎麦は「箱盛り蕎麦」と「甘皮蕎麦」。他では見かけない「甘皮蕎麦」についてうかがった。

「皮むきで出た甘皮を取っておいて、それを後から蕎麦粉に加えます。もちっと食感がよくなる。」

蕎麦粉を作る際の皮むきで出た甘皮は箱にためておき、甘皮蕎麦に使うそうだ。しかし、量がそれほどでないため、独立した弟子たちにもお願いをし、出た甘皮を譲ってもらっている。

「鞍馬」の蕎麦を茹でる時間は二分。機械打ちは固くなるが、手打ちは水分を含み柔らかいため、お湯に旨味が出てしまうので短時間でさっと茹であげる。出汁はあたたかものとつめたいものは別々に作っている。使う醤油も変えている。

「冷たいのには長野の松本のしょうゆを使っています。冷たいのによく合う。暖かいのにはヒゲタ醤油。」

醤油以外の調味料はみりん、上白糖だそうだ。

 

現在は営業時間中はお客でいっぱいの鞍馬だが、開店してから十年くらいは苦しかったそうだ。

「はじめは全然来なかったです。そうですね。女性がターゲットですね。女性に納得してもらえるのは大切です。女性を満足させられれば男も来ますから。」

確かに、我々がインタビュー前蕎麦をいただきに訪れたときは、時間的なものもあるだろうが店内は女性客が大半を占めている。お酒を飲みながら蕎麦をすするお客も少なくない。

「ご年配の女性も飲んでますよ。蕎麦はくせがないからお酒と一緒にね。そうですね。このあたりの人が多いですが、電車で遠くからやってこらる方もいますね。」

何があっても自分の蕎麦職人としての信念を曲げず、とことんこだわった蕎麦づくりをし、現在は、平日は五十人前ほど、土日は百人前ほどの蕎麦が出る繁盛店である。

 

鞍馬が並ぶ通りには、ここ数年若者向けの蕎麦屋が数件オープンした(中にはもう閉店してしまった店もあるが…)。その影響はあったのかをうかがった。

「それがそうでもなかったです。逆にご年配のお客さんが増えました。」

若向けの飲み屋的蕎麦屋との差別化がはっきりできたのだろう。

 

吹田さんのところで働く若者は、これから自分でも蕎麦屋を立ち上げたいと思っている人達だそうだ。これまでも、吹田さんのところで修業した職人たちが独立して店を持っている。「新座 鞍馬」「青森 鞍馬」「伊豆 鞍馬」である。蕎麦屋を開業するにはかなりの資金が必要だそうだ。

「蕎麦屋をするには特別な道具や食器が必要ですから、お金がかかります。若い人がすぐ出すのは難しいですね。」

それでも自分の蕎麦で自分の店を持ちたい、という人は受け入れ、修行の場を提供している。

蕎麦への情熱は尽きることなく、隣の荻窪で蕎麦打ち教室も開催している。定員二十名の半年間コースだ。常に「空席待ち」の人気のコースだそうだ。

 

吹田さんは現在御年七十一歳。まだまだ精力的に蕎麦づくりを極めようとしている。一昨年、玄ソバ選別機、玄ソバ脱穀機、製粉機を新調した。玄ソバ選別機はソバの実の大きさを選別する。玄ソバ脱穀機はソバの実から皮を取り除いて丸ぬき(玄ソバからソバ殻だけをきれいに取り除いて、そのままの形の状態のソバの実)を採取する。製粉機は製粉された粉を振るい網にかけて仕上げる。

「まだやりたいことがありますね。ものづくりは楽しいです。」

 

私たちは手作りで出される食べ物を「ものづくりの結果」としては認識していない。しかし、美味しい「手作り蕎麦」の背後には、丁寧な作業と最新の機械を正確に操る複雑なプロセスがある。客たちの舌を満足させるために、そして何よりも自分の食に対する理想像を追求するために、知識と高度な技術で材料を加工して「蕎麦」なるものを作り出す吹田さんは、シェフ、フードエンジニア、料理職人全ての人だと言えるだろう。(ファーラー・ジェームス、木村史子、11月10日2019)

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