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天職の小料理屋の女 (こぎく1)

西荻窪南口、柳小路に並ぶ小料理屋「こぎく」。いつ行ってもほぼ満席の店だ。ママは山井奈美(やまい なみ)さん。現在は埼玉にお住まいだが、生まれと育ちは東京。べらんめえ調が出るちゃっきちゃきの江戸っ子ママである。料理は「言えば」いろいろ出てくる。「ママぁ、オムライス食べたいなぁ~」と言えば、オムライスが。「ママぁ、餃子ある?」「今日はあるわよ。」と餃子が出てくる。まるで実家に帰ってきたようだ。「実家」に帰ったお客達はときどき、ママからおつかいを頼まれ、柳小路の隣のスーパー西友へ行ったりもする。

 

一見するとこぎくは、人気のテレビドラマなどで描かれた素敵な料理職人の店のようだ。 しかし、魅力的な奈美さんの美味しい料理と温かい雰囲気の背後には、女性がたった一人で不安定な日本の飲食業界の荒波を乗り越え、生き抜いてきたストーリーがある。

 

奈美さんは早くにお父様を亡くされて、お母様が洋裁の腕一本で奈美さんとお姉様達を育て上げた。それを見て育った奈美さんは小さいころから「職人」を意識して大人になったそうだ。離婚して三人の子どもを育てながら様々な職業に従事したのち、三十四歳のとき初めて自分の小料理屋を持つ。

「三十四歳の時に吉祥寺ではじめて『こぎく』っていうお店を出しまして。小料理屋。ま、それは子どもを育てる中で、三人子どもがいて、そのときはみんな小学生、一番上の子が中学だったかな、なんかそのぐらいのときで。その前もいろいろ仕事してたんですけど、バスガイドをやったりとか。シーズンでね。春と秋はバスガイドの仕事をしてたんですが、そのときに、旅に出てしまうと子ども達のことが心配で。ここに来ればママに会えるっていうのがよくて。スナックとかそういうところだと子どもは入れないし、ましてや勤めや何かだったらそれはできませんよね。だからお店が。ま、それも人の勧めがあって物件が。で、やったんですけど。ここに来ればママに会えるっていうのが一つと、夕食をお店で食べさせてあげられるっていうのがあって、ああ料理屋いいじゃないかって。」

「居抜きのね。焼き鳥屋かなんかだったのよね。四坪弱で、吉祥寺だったんだけどね。ここの倍ぐらいのね。」

場所は近鉄裏(昔近鉄百貨店があった)と呼ばれたところ。正しくはクックロード。今でいうとヨドバシカメラの裏で、吉祥寺駅から延びる線路に近いところだった。その当時は風俗店も多かった。

「料理店もけっこうありましたね。わたしが立ち退いた後はお茶屋さん、ウーロン茶屋さんに、今は立ち飲み屋さんになってますね。」

しかし、最初に持った自分 の店で思わぬトラブルを経験することとなる。

「実はわたし、騙されまして。なんか、わたしが払っていた家賃が違う人の手に渡ってたんですね。それで、保証金で納めたものも、全部違う人の手に渡ってて。」

「でも、だけど、よく大家さんが一年間黙ってたなって思って。一年間何も言ってこなかったんで、たぶん、又貸しみたいな感じになってたのかな。不動産屋さんも亡くなられていて息子さんが継いでたし、その間に入った方と不動産屋さんが一緒になってちょっとお金にしたのかなって思いましたね。これはわたしの推測ですし、その頃わたしはまだ三十代で何も知恵がなかったし。」

「ある日相手方の弁護士さんみたいな人から書類がきて、で、それで何月何日までに出てくれって。で、『え?なんで出るの?』ってなって。家賃ちゃんと払ってるし保証金も払ったし。それで、あの、大家さんのところに行って話を聞いたら、『わたしは何ももらっていませんよ。』ってなって。で、書類とかも『こんなのぜんぜん無効。』って言われて。」

「じゃあ、どうしようかなぁってなったけど、悩んでたり泣いてる暇もなく。ね、食べていかなきゃいけないし。で、片付けを人に頼んで。ちょっと精神的ショックもあったので、なんか、お店に行くっていうのもできなくて。それで知り合いの、組合で一緒だったママさんが、『じゃあ、うちいらっしゃい』って言ってくれたので、昼はお弁当屋さんで働いたりして。あと、保険屋さんでも働いたりして。なんかあるでしょ。保険屋さんって試験を受けると紹介した人にお金が入るから、人を紹介するっていうか。で、そこに行ってタイムカードを押して、自転車でお弁当屋さんに行って、配達して。お手伝いとかして。それから、コンパニオンとかの仕事もして、夜なんかそのママさんのお店で働いて、その後もう一軒別の店で働いたり。一日に五カ所の仕事をしました。そうなんですよ。生きるのってお金がかかるから。」

「お店の借金は、いっぺんに借りてそれでそれを返していくって感じで返しましたよね。(騙した相手を)訴えるのも、書類とかはっきりしていないから裁判とかできないんですよね。わたしがとにかく何もわからずに紹介されたままに『じゃあここでやりなよ』っていう風になっちゃって。」

奈美さんはそのときのとんでもない経験を、いつもと変わらない口調で話してくれた。

「ま、まるで子どもでしたね。世間のことを何も知らないっていうか。一年三カ月ですか。吉祥寺で。で、そのときに会ったお客様がいまだに来てくださったり。亡くなった方もいらっしゃいますけどね。二十年前ですね。わたしはね、昨日のような気がしますけど、鏡を見ると『あ、昨日じゃない』って(笑)。あれ?みたいな。振り返ると、その二十年っていうのはいい意味で積んだものもあるし、いろんな経験があったなぁって。」

 

一件目のトラブルで精神的にも金銭的にも大きなダメージを受けた奈美さんだが、また店をやる機会がやって来る。

「わたしは、とにかく食べていくために仕事、って思ってたんです。だから勤めでもいい、自分でやってもどっちでもよかったんです。だから生活できるだけのお金があれば。ただ、就職先をちゃんとはっきり決めなければと。一日にあっち行ったりこっち行ったりじゃ体力的に続かないなと。で、知人に相談したら、『ある人がお店を始めるから、そこのママになってくれないか?』って言われたの。」

店を出す場所は吉祥寺とのことだった。

「そしたらわたし、また吉祥寺に戻れる。吉祥寺にお客様がいるから、『あ、やります』って。『ところでそのオーナーさんって誰なんですか?』って聞いたら『君のよく知ってる人だよ』って。で、何月何日会いましょうってなって会ったら、まあ、その筋の方だった。」

のだそうだ。

「でも、吉祥寺でお店やってたから、知らない顔ではなかったし。」

その人物関係の店が最初の小料理屋の近所だったため、そちらの「若い子達」もよく奈美さんの店に来ていたそうだ。

「『ママ、おなかすいた。』『ご飯炊いてある?』とか『おにぎりある?』とか『お茶ちょうだい。』とかね。自分もあんまり歳変わんなかったったりするけど、なんだか息子みたいな感じで、『あ、ちょっと待ちな。今握ってやるから。』ってな感じで。夜勤の子の弁当もよく作ってましたね。」

 

「で、その人物が任せてくれる、って始めたけど、周りにその人物の女だって思われてたみたいで。あ、こういう方の店やるって、そゆこと…って。でもその方は別にわたしに興味ないし、なんもない。ビジネスのお付き合い。で、わたしはその方の奥さんとやり取りした方がいいと思いましたね。その方のことを社長と呼んでいたし。」

もちろん店には普通のお客達がやって来る。しかし、その人物はもちろん、そこの「若い子達」もやって来る。仕切るのはかなり難しい。そこで奈美さんは、「みんなのお母さん」として振舞ったそうだ。

「任されているからにはやぱり評判を悪くしちゃいけない。普通のお客様が来なかったら、店の女の子たちの給料も出ない。だから、大丈夫だよ、ってお客様には見せてましたね。だけど、やっぱりどんな人間でもね、デリケートだし。だから、お母さんになったつもりで接しないといけないっていう、そこすごく気を使いましたね。普通のお客さんを怖がらせちゃいけないし。口ではそう言えないけど、わたしがいるから大丈夫だから、って見せないと。」

しかし、いくら「お母さん」が見ていてくれるとはいえ、一般のお客達にとって「その筋」の人々は怖くはなかったのだろうか。

「それが、あんがいお客さんって…好きで。『こっち来て一緒に飲もうぜぃ。』って言われたりすると、もうその人は嬉しくて他のお客さんに言うような…。わりあいにそういう人が多くって。ぼくは特別扱いしてもらったんだよっていう感じで振る舞う人が多くて。自分も若い衆ぶったりして、めんどくさいなぁって思った(笑)。」

このときの店は、お客が二十五人ほどが入れる広さだった。店についてもう少しうかがった。

「ボックス席がありました。あと、カウンターがずーっと長いのがあって。スナックですかねぇ。ゴルフコンペがあったときの打ち上げパーティーのお料理とかはやってましたし、普段は昔のわたしのお店のお客様だったので、食べたいときは料理作ってましたけど。」

しかし、店のオーナーはきっちりした人だったため、料理のための食材を買うのにも気を使ったそうだ。

「だから、毎日伝票と日報と現金をチェックしていましたね。信用されてないんですよ。」

給料は月払いできちんと支給されていた。

「働いている女の子たちは時給でやって月給払い。そういうところはちゃんとしてましたね。こうちゃんと封筒でもらって、わたしが、『はい、給料、はい、給料』って渡してましたね。今から十五年以上前ですね。」

 

この店では、仕事としても、給料も、安定していたと言えるのではないだろうか。

「うーん。でもなんかある日、わたしはどんどん考えるようになって、『わたし、これ、ずっと続けるのかなー』って。」

 

こう思いはじめたちょうどその頃、社長と奈美さんとの間でちょっとした行き違いがあり、結局奈美さんはその店を辞めることとなった。

「自然の流れってありますからねー。そこで経験したことも役に立っていることもあるし、まあ、よかったかなっていうこともあるし。ちょうどよかったかなって。三年弱くらいですねかね。」

 

江戸っ子的なきっぷのよさですっぱりと店を辞めてしまった奈美さん。そこにまた、仕事の声がかかる。

「老人介護施設、デイサービスを始めたお客さんがいたんです。それで電話がかかってきて、『困ったときの奈美頼みなんだけどさー、こういうの始めたんだけど、お昼ごはん作る人がいないから、奈美ちゃん、来てくれないかなー』っていうんで、『いいよって』昼間だけ行ってたんです。わたしに残ったのはその仕事だけだったので、そこにしばらく、昼間の仕事だけ行ってたんです。」

介護施設は西荻にあった。

「そしたらそのお客さんが、『奈美ちゃん、いい物件見つけてきたよ。』って、ここ。『今日さぁ、見に行こうよ。片付け終わったんでしょ。』って言って、わたしを連れ出してここを見に来たんです。介護の会社の社長さんで。『いや、わたし、今、お金ないからできない。』って言ったら、『うん、お給料で返してくれればいいから。』って。その、わたしが働いた分のお給料をそのままその人に返す形で。それでやってくれればいいよ、って言われて、『それはちょっといいんじゃないか』って。なので、工事をしたり、最初にかかるお金を貸してくれたんです。」

 

こうして2005年、柳小路に開いた現在の「こぎく」は、「実家」なのだそうだ。

「わたしは、お客さんが実家に帰ってきたような気持ちになるようなお店にしようと思いました。吉祥寺のときと変わんない。吉祥寺のときは家に帰ってきたようにって思ってました。西荻は…わたしも歳をとったんで…実家のお母さんのつもりでやろうと思いましたね。なので、あれ作っといて、って言えば、『よし!』って作りますし。ご飯、あるときもないときもあるし、ちょうどそんな感じです。」

こぎくで出している料理は働きながら学んだ。子育ての際に工夫した節約めし、飲食店のアルバイトで習得した料理、お客が他店でごちそうしてくれたときの料理の舌コピなどなど。

「ときどき、お客様に食事に連れて行っていただくのですけど、わたしはこのチャンスを逃しちゃいけないんですよ。わたしは自分で食べに行ったりできないから、この瞬間に何が入っているかを知らなければいけない。『この食材、これだ、よしっ、オッケー。』って、もう必死みたいなところありましたよね。」

 

奈美さんのお母様によると、奈美さんのお父様はとても口が綺麗で味にうるさかったそうだ。「あんたはそこを受け継いでるのね」と、生前のお母様は、奈美さんにそう言っていた。

「でも、母も、貧乏でしたけどわたしたちが大人になったときに恥をかいちゃいけないからっていって、いろんなものを、なんか、今考えると『いやいや、それはステーキじゃない』って思うけど、一生懸命食べさせてくれてましたね。食べたことないっていうのが、世の中に出たときにマイナスになる、自分の気持ちが世の中に負けてしまわないように、って、いろんなものを食べさしてくれたんですね。だから、もしかしたら、そんなところもあるかもしれない。母は自分ではお料理は苦手って言ってたけど、うちの子ども達はおばあちゃんのお料理はおいしいって言ってたし。あのね、きみちゃん、きみこっていうんで、『きみちゃんのお味噌汁はおいしいね』って孫たちに言われると、泣いちゃうの。『わたしはそんなこと言われたことがないわ』。もう亡くなって十三回忌になりますけど。えとね、ここ始めて少しくらいしてからですね。一年くらいですね。」

 

ここで、2005年、奈美さんが店を出した頃の柳小路の様子についてうかがってみたところ、その頃は窓がなく、外から中はわからない店が多かったそうだ。

「こういう店が多かった。中はわからないですけど。今、ま、歳で言うと八十代くらいの方が、十年前だと七十代くらいの方がやってましたよね。一、二、三、四…四軒?五軒ぐらいあったかな。そのうち一軒はスナックでしたね。だけど他はみんなこんな感じ。和風づくりの。小料理屋って出しているところもありましたし、あとは特に店名はないところもありましたね。」

「十三年前はわたしは嫌われ者で、とにかくなんかすごいいろいろ言われましたよ。あのこはその筋の人間の女だからみんな行かない方がいい、ってお客さんみんなに言われたり。不動産屋に電話をされて、『あそこはそういった人達が毎日ぞろぞろいて怖いから……。』とか。」

 

そんな奈美さん自身も、今や柳小路の古株になりつつある。ここ数年、西荻窪飲食店組合の女神輿の積極的な参加者の一人にもなっていた。

西荻窪飲食店組合。戦後、占領軍とのトラブルから街を守るため、組合の前身となる自警団が立ち上がったところからスタートした。この頃、百八十人ほどのメンバーがいたそうだ。1952年、サンフランシスコ平和条約発効の年、正式に組合として許可された。組合員には、戦後外地から引き上げて来た人、地方から出てきた人、戦争で傷を負った人など、頼るものがいない人々も多くいた。そんな者同士、みな助け合い、協力し合あった。組合員の団結力はとても強かったそうだ。

組合として許可されると、荻窪八幡の氏子となり、組合の事業の一環として「女神輿」が始まった。当時は店内に二~四人の女性が働いている店が多かったそうだ。最初は担ぐ神輿がなかった。「ちよか」という店の高齢の女店主が声を掛け、半纏を着、他の神輿らの先頭で賑やかに歌ったり踊ったりしていた。しかし、やはり神輿はほしい。とはいえ購入する資金はなく、しばらくは借りてきた神輿を担いでいたそうだ。そしてようやく十五年ほど前に悲願が叶い、子ども神輿だったものを女神輿として購入することができた。現在も担がれている神輿である。

今はもう、組合員は十人ほどになってしまった。女神輿に参加する女性のほとんどは組合員ではなく、店主の友人とお客達となっている、と、奈美さんは語った。

 

率直なところ、奈美さんはとても頭のいい方だ。こぎくを訪れるといつも、柳小路の歴史や長屋の構造の詳細まで話してくれる。

「長屋の形で残ってる?少ないかなー。木造長屋。床の下は土です。床は自分で作ったし。ここの壁の素材と同じです。」

柳小路でこぎくを開店した頃は、たまに小さなねずみ達も店を訪れてきたそうだ。

「それを一番奥に座ってた子が、『ママー、リスを放し飼いにしてるんですか?』って。で、それは違うよ、ねずみだよって。電線とか歩いてましたけど、今いなくなりましたね。」

 

奈美さんの小料理屋遍歴はもちろん、長屋をねずみが走り回る話までもが昭和の映画やドラマのようである。けれども江戸の色鮮やかな過去を反映したものではなく、平成の不安定な経済状況を反映する中、積み上げられた複雑なキャリアだと言える。多数の仕事をかけもちするなど、子どもを育てる奈美さんが店を経営することは容易ではないのだ。 現在もこぎく以外の仕事もしている。それはテレビドラマの「料理職人」のような単純な生活ではない。しかし不安定な中、自らの道をつくっていっている人だ。

 

奈美さんの話はともて興味深い。なので、二つの文章として記載したいと思う。次の話は、「仕事帰り、うちに帰らずに飲み屋に寄るお客達」の話である。(ファーラー・ジェームス、木村史子、3月22日2019年)

(こぎくの常連客による、こぎく開店十三周年記念の作品。奈美さんの若かりし頃の姿も見ることができる。)