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ギンズバーグとオーガニック:西荻の第二の顔

昔から西荻は二つの顔を持つ。一つは「金持ち」が住む、とてもブルジョワ的な ベッドタウンの顔。二つ目の顔は ちょっと小汚い文化人が集まるボヘミアンの町の顔。その第の二の顔で西荻を代表するのは、「ほびっと村」という古く、ツタに覆われた三階建ての建物をおいてほかにないだろう。

一階にはオーガニックの八百屋。二階にはオーガニック野菜を使った料理店の走りと言える「バルタザール」がある。
店内の壁に掛けられた写真は、店長のなもさんがビートポエット、アレンギンズバーグが日本に滞在した時にもらったもの。座ってコーヒーを飲みながら、遠い1960年代のヒッピー文化にいつの間にか戻っていける場所だ。


1976年から40年間ここを経営するのは、通称「なもさん」こと長本光男さん76歳。彼のこれまでの人生を聞いていると、まさに時代を生きた人である

なもさんは、出身は熊本だが、高校から東京・新宿へ。高校からの帰宅途中に素敵な喫茶店があり、よくそこに行っていたそうだ。そこには、劇作家であり天井桟敷の主催者でもある寺山修二 (『書を捨てよ、町へ出よう』など)をはじめとした、おもしろい人物人たちがたくさんいた。そこに通ううちに、「なんか普通とは違うことやりたいなぁ」と思ったそうだ。大学に進学してのち、日本のヒッピー文化の先駆者で詩人のななおさかきとアメリカのビート詩人ゲーリー・スナイダーアレン・ギンズバーグらとも出会ってしまい、「大学を出るというレールが、なんだか嘘だ」と思ったそうだ。そして、大学をドロップアウト。しかし、当時は安保闘争が激化し、新宿も大変だということになり、旅に出た。ヒッピーの聖地であるアメリカ・バークレーにも、1973年から1974年、滞在していたそうだ。

旅から戻ってからは、知り合った仲間達と国分寺で共同生活をした。その後は南の島(鹿児島の諏訪瀬島)、長野と移動した。

なもさんはその頃のことをこう話す。「ヒッピーと呼ばれていたので、世界中にその噂が広まって、ぼくらのところに来れば泊まることも食べることもできるということで、世界中から旅している人たちがきた。楽しかったけど、クレイジーだった。でも、人間、あまりクレイジーになるチャンスがないので、いい。今までの生きているという感覚と違った。新しい友達、新しい家族といった感じ。今でもあの感じで付き合いがある。別々に住んでいるが、いまだに家族という感じ。何も隠さず、何なんでもオープンに話す。」

しかし、そんな生活をしているうちに、普通の人、ふつうのおじさんたちとコミュニケーションできる仕事がしたいなぁと思うようになったそうだ。

そして、農薬を使わない野菜の販売を始めようと思ったそうだ。
「きっかけは、水俣病。ぼくが熊本だから。日本人は水俣病を経験している。」
ちょうどその頃、日本では公害が社会問題となっていた。

はじめ、どこに行けばオーガニックの野菜があるかわからなかった。全国の農協を回ったが、オーガニックなんてわかんないと言われた。それで、農家でちょっと変わったおじさんがいないか?と聞いてみた。「いるよ」と。農協という組織が嫌いで、農薬が嫌いでという人がいて、ひっそりやっている人たちがいた。茨城、埼玉、千葉などの、そんな農家の人達から野菜を仕入れた。

最初は、店は持たないでトラックで仕入れたものをそのまま団地で売っていた。しかし、トラックで野菜を運んできて突然現れて、突然消えるスタイルでやっていたので、お客さんに不安に思われるのはよくないんじゃないかと思うようになった。ちゃんといる場所と、お店ができる場所があればいいなぁと思ったときに、以前の知り合いから、ちょうどここがあいた、と連絡があった。

その頃の西荻は静かな街で若い人たちがあまりいなかったので、若い人たちが来るように、と呼ばれたようだ。しかし、ヒッピーの客が大勢来たので、最初は気にしていなかった大家さんもびっくりしたようだった。

ほびっと村の名前は、トールキンの「ホビット」からだそうだ。その中に出てくる小人たちが平和を愛している。店を一緒にやりたいという仲間に、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の人たちがいて、彼らが「ホビット」をシンボルにしていた。彼らが「ホビットにしたい」ということで、なもさんも「いいよ」と承諾し、「ほびっと」に決まったそうだ。

レストラン「バルタザール」の由来はイギリスの作家、ロレンス・ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」という1958年の四部作の小説の登場人物からとったそうだ。

あれから40年。お客さんも変わった。最初のうちはロングヘアーのヒッピーだったが、そのうち近所のおばちゃんらが来るようになった。
「今おばあちゃんになっている人たちが、ぼくらの最初のお客さんだった。もう亡くなっている人もいる。40年やっているので。ヒッピーがやっている店だったのに、普通のおばちゃんたちが来る店になった。」

なもさんは、ヒッピー文化は今も考え方として残っていると言う。昔と同じではないが、例えば、農業をやりたいとか、違う生き方をしたいという人たちが増えていっているのではないかと。
「西荻の中で、オーガニック文化は…ちょっと違うけど、おしゃれな感じだけど…増えた。ぼくらはおしゃれじゃなくて汚いけど(笑)。」

なもさんの話を聞いていると、彼は若者の自立と日本のオーガニック農業家に貢献し続けていると感じる。「田舎に行く人達や、集まって自立していこうとしている若者たち、政治的にどうこうではなく、自立していきたいという人たちが増えてきているような…。自分たちで作って、自分たちで食べていきましょうという考え方。ぼくたちが八百屋をはじめたのは、そういう人たちがそういうことをできるチャンスを与えようと思った。教えてあげられることを教えていきたい。」と。

西荻の一つの顔ともいえるような店を経営するなもさん。しかし、彼は西荻という町に対して斜に構えている。

「40年ここで店をやっていても、慣れ親しむという感じがない。西荻住民とは感覚が違う。どっちがいいとか悪いとかではないけど。」

「ここは昔からお金持ちの人が住んでいる…それもあまり好きではない。」「本当のコスモポリタンな町は、今の東京には見つからない。けれども1960年代の新宿にはあった。」「新宿がすごくよかった時代、1960年代、に新宿に住んでいたからかな。新宿の東口の紀伊国屋があんなにまだ大きくなかったころ、そこに行って、『これ、ちょっと一日貸して』というと、本屋さんが貸してくれたりしていた。すごくいい本があって読みたいなーと思ってお金がなかったから、貸して、といったら貸してくれていた。あの頃の新宿は、お金持ちもお金がない人もみんな住める街だった。でも、1970年代にいろいろなことが変わってしまった。60年代の新宿は、サブカルチャー的に元気だった頃だ。」

なもさんは、ほびっと村を作って、10年間ほどはデモをやっていたそうだ。原発反対など1980年代。チェルノブイリ事故の後である。

「ぼくら、早いうちにいろいろやっちゃった。」

なもさんにはお子さんが4人いる。彼らもみな、ほびっと村の八百屋とバルタザールで働いている。しかし、お子さんたちは昔のヒッピー文化を嫌っているそうだ。なもさんは言う。
「ぼくらはあんまりよく分かってもらってない気がする。普通の人のフリーダムと、ぼくらが思っているフリーダムも違う感じ。」

お店の常連さんたちからも、「なもさんの野菜は買うけど、なもさんのグループにわたしの息子や娘を誘わないでね。」と言われてしまうそうだ。
「ぼくらの仲間になると、いいところに就職できなくなる、と言われるんだよ。」

なもさんが言う本当の自由は、簡単なものではない。「自由は、やりたいことはやるけど、それに責任持てるか。自立できてないと、周りに迷惑がかかる。自由は自由なんだけど、ものすごく大変。その大変なのがいい。束縛された方が楽。これやれ、あれやれと言われた方が楽。自由だと、全部一人で決めないといけない。もっと自由な経験を積んだ人が増えていけば、もっと世界中いいことが増えるはず。」

なもさんは、今のオーガニック文化も自由な感じが足りないと言う。「最近流行りの野菜ソムリエとか好きじゃない。日本のオーガニックの基準も嫌い。約束だけの話で終わっちゃう。ぼくが好きな『フリー』な感じがない。認証がないとダメという人がいるけど、日本の政府もアメリカの政府も、変なこともやってるのに…。ぼくらは、農薬使うときは『農薬使うよ!』とはっきり言ってる。むかし、それでお客さんとケンカしたこともある。」

コスモポリタンで自由人、そして時代を生きてきたなもさんが経営する「バルタザール」。これからも、西荻の顔であるが異色の場所として存在し続けるのだろう。(ファーラー、木村、5月17日2016